第19話
一方、姜維。
誰もが、この硬直した戦況下での戦は無理だと思っている中、ただ一人、独自に北伐への道を切り開いていた。
動かないと思っているからこそ、動かせる。兵は詭道なり。これこそが、兵法の基本である。
連れているのは、小競り合いで鍛え、特に見どころがあると見極めた五百の新兵。そして、新しい校尉の二人である。
その校尉の内の一人の名は、蒋琬の次男である「蒋斌(しょうひん)」と言い、まだ年齢は十六であった。
しかし、その優れた将器を既にうかがわせる統率力と軍才を持っており、戦の指揮にも目を見張るものがある。
蒋琬はそんな息子を姜維に預ける際に「私に似ず将器を持って生まれた息子を、どうか父の名を越える程に鍛え上げて欲しい」とまで言った。
贔屓目を無しにしても、その素質は存分にある。
そしてもう一人は、蒋斌よりも二つ歳が上の「傅僉(ふせん)」という青年である。
非常に溌溂とした明るさを持っており、新兵の間で最も人気のある校尉である。
最初はただの部隊長であり、それ程戦の指揮が上手いというわけでも、腕っぷしが強いわけでも無かったが、混戦では決して配下を見捨てず、仲間が死ねば誰よりも悲しむその姿を見て、姜維は彼を校尉に引き上げ、蒋斌と共に自らの側に仕えさせた。
やはり戦ではまだ迷いが見えるものの、磨けば実力以上の力を発揮する武将に育つと思ったのだ。
今、その若き五百の新鋭達は、涼州の土を踏んでいる。
少数の兵力だからこそ出来る行軍であった。蜀の旗も掲げない、一見すれば旅団にも見える五百騎。
国境に配備された魏軍の守備兵を避け、姜維らは密かに涼州へ潜入したのだ。
「しかし、流石に郭淮だ。あの涼州でさえ、魏国に靡き始めている」
生まれ故郷を歩くと、記憶の中の涼州とは、若干の空気のずれがある。
力のあるものが強く、弱い者は奪われる。そんな殺伐とした、最も原始的ともいえる掟がこの地には根付いていた。
しかし今の人々は、自らの「暮らし」を考え始めている。そんな風に見て取れるのだ。
やはり、統治者としての郭淮の才能は、敵ながら天晴だと言わざるを得ない。
民の暮らしに目を向け、少数の魏軍を要所に配置する事で、散発的な略奪を未然に抑えている。守備兵も少ないから、力で押さえつけているという反発も起きない。
また、貧困に喘ぐ者達には食料と、農耕の道具を支給していた。奪うという選択肢しか無かった涼州の貧しい民達には、驚きであったに違いない。
郭淮は民の暮らしを保証する事で、着実にその心を掴み始めていた。
「早く事を起こさねば、涼州は完全に魏国のものとなるのではないでしょうか?」
隣の蒋斌が、姜維の思考を先回りして、そう尋ねて来た。
頭が切れすぎる。そしてそれを本人が自覚しているところに問題があった。
こういう癖が若いうちに定着すると、直感ばかりに頼り、考え抜く事をしなくなる。それは、戦略家として致命的な欠陥だと言っても良い。
「浅いな」
姜維は鼻で笑い、蒋斌の一言を突き返す。蒋斌は表に出さないまでも、不服な感情を滲ませていた。
「何故ですか」
「すぐ答えを求めるな、考えよ。その程度も出来ないとなれば、私はお前の父に文句を言うぞ。このような不出来な者を寄越すな、とな」
「っ……」
今度は明らかに怒っていた。まだ、十六である。
素質は若手の中では最も良いのだ。早い内に、自分が平凡であると思う事が出来れば、将軍としてこの国を支え得る大器ともなれるだろう。
傅僉と共に成長して行ってほしい。その為の、涼州である。ここを獲るまでが自分の役目であり、その先はこの若手達に任せよう、姜維の心中は穏やかであった。
「姜将軍!」
後方から馬で駆けてきたのは、傅僉である。
蒋斌は常に姜維の傍で全てを学ぼうとしているが、傅僉は常に兵達の側に居る事を好んだ。
それを見て姜維は、今は蒋斌の方が戦の指揮で上回っているが、すぐに傅僉が追い抜くだろうと確信した。
傅僉の兵は、常に傅僉の為に死ぬ覚悟が出来ているのだ。
一方、蒋斌の兵は統率こそ取れているものの、主を命がけで守ろうとはしないであろう。この差は、非常に大きい。特に実戦では、致命的な程の差になり得た。
「偵察によれば、二千の騎馬兵がこちらへ向かっているとのことです。魏軍ではないみたいですので、恐らく涼州の、何れかの豪族の兵団かと」
「ほう……蒋斌、お前なら次をどうする」
「涼州の騎馬兵ともなれば、侮れない強さです。身を隠すが賢明かと」
「傅僉は?」
「お、俺も同じです。二千と五百では、勝ち目はありません。それにこちらは、半数が歩兵です」
「二人とも、賢明な判断だ。だが、私は戦う」
姜維は笑いながら長剣を引き抜いた。驚きで声が一瞬出なかった二人は、慌ててそんな姜維を止める。
しかし、姜維は構わず兵達に「小さく固まれ」と指示を出して、誰よりも先に馬を駆けさせた。
こうなればもう後を追うしかない。傅僉も、蒋斌も、そんな姜維の後ろに続いた。
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