第25話
その、僅か五日ばかりが経った、真昼の事である。
郭淮は、涼州の大小様々な豪族らに対して、利害を説く書簡をしたためている時であった。
「か、郭将軍!鄧将軍が、僅か八百の旗下を連れて出陣されました!」
「どういうことだ?」
「これを」
紐で縛られた竹簡を、物見の兵から渡される。
慌てて紐を千切り、それを広げる。間違いなく、数日前に見たばかりの鄧艾の筆跡である。
『姜維の首を、取って参ります』
短く、それだけが書かれている。
「二千の兵ですぐに追いかけよ!決して鄧艾を死なせてはならん!急げ!!」
「ぎ、御意!」
鄧艾は、司馬懿が最も重用している配下の一人である。彼が死んでしまえばどのような叱責を受けるか分からない。
それに今や司馬懿は国の実権を握りつつあるのだ。ここで下手に神経を逆なでる様なことはしたくなかった。
誰もが、自分を見誤っている。鄧艾の心は、常に滾っていた。
生まれは、貧しき農家であった。戦火による移住に移住を重ねた、普通の農家である。
親や周囲の人間には、この吃音のせいでいつも疎まれ、虐げられてきた。生まれてきた頃より、そうであった。
それでも鄧艾は折れることは無かった。
むしろ虐げられ、踏みつけられるほど、まるで雑草の様に強く根を張り、その幹を太くしていった。
農作業では体を鍛え、土を知り、作物を学んだ。
狩りでは弓術を磨き、家族の分の獲物を取りながら、自分の食料も密かに確保した。
そのおかげでこれほどの巨躯にまで育った。
奴隷の様に働かされ続けたが、無言のまま、その全てを自分の糧にするほど貪欲に学んだ。
特に、土を見るのが楽しかった。
全ては、この大地から始まるのだ。大地さえ知れば、全てを知る事が出来る。
鄧艾の思考は、全てそこに行きつくようになった。
十歳を過ぎた頃、鄧艾は魏軍によって強制的に屯田民として徴収されることとなった。
家族から見放され、食い扶持を減らす為に追い出されたとも言い換えられる。
そんな鄧艾の才覚に感づいたのが、乱世の姦雄「曹操」であった。
少年達の中で一際大きな体を持つ鄧艾を見て、屯田民よりも、兵士にした方が良いと判断したのだろう。
鄧艾はすぐに兵士として働くことになる。
そして、地理に対する知識の深さが兵達の間で話題となり、間もなく役人として召し抱えられたのだ。
仕事は地形を調べて、農民の兵糧を徴収する為の資料を作成する事であった。
ここで、鄧艾の才能は大きく飛躍し始めたと言っても良い。
自ら様々な土地へ赴き、地図を書き、どこに兵を配せば有利に戦を進められるかを妄想した。
任地以外の場所にも一人で赴き、頼まれてもいない地図を描き続ける鄧艾を、周囲は変人奇人の類で扱った。
仕事では成果を上げているにもかかわらず長いこと昇進が無かったのは、そんな周囲の讒言によるところが大きかった。
それでも、鄧艾は折れずに、ひたすら牙を研ぎ続ける。
「いつか、百万の兵を指揮する、歴史に名を遺す様な大将軍となる」
幼き頃より抱き続けたその大志のみが、鄧艾の心を焦がし続けたのだ。
そんな奇人の噂を聞いたのが、まだ、曹操の参謀の末席にしか過ぎなかった、司馬懿である。
鄧艾の才能の大きさに魅せられた司馬懿は、すぐに自らの傍に置いた。
また鄧艾も、司馬懿の遠大な智謀を感じ取り、彼を主と仰いだのである。
互いに長い事、自分の爪を隠し続けて来た者同士である。何か通じるものがあったのだろうか。
それは二人にしか分からない事であった。
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