第29話

 黄皓は慌てて地に額をこすりつける。


「何か、ご無礼が御座いましたでしょうや。何なりと、罰をお申し付け下され!」

「違うのです。そのまま、私の話を聞きなさい。そなたにしか、頼めない事なのです」


 恐る恐る、視線を上げる。

 涙に濡れながら、あの、力強い瞳が真っすぐに視線に飛び込んできた。


「私は、数日の後に、この世を去ります」

「な……何を、そのような。ご冗談にしても、お辞めくださいませ」


 病に伏している訳でも、顔色が悪い訳でもない。体調に異変を来したと言う話も全く聞いていない。

 それどころか血色も良く、いつもと何ら変わらない姿である。

 悪い冗談にしか聞こえなかった。それでも、張敬の表情だけは悲痛である。


「母と、同じ病です。ここが、私も弱いのです」


 張敬はそう言って、左胸に両手を添えた。

 心臓。黄皓は呟く。


「昔から、鼓動の周期が不規則になる時がありました。しかし、それだけで、特に体におかしい事はありません。しかし最近はよく、眠るように意識を失ったり、呼吸が苦しくなる感覚が私を襲います。気づかぬうちに、止まってしまうのです」

「ならばっ、早く医者をっ」

「無駄です。母がそうであったように、治らぬことは私が一番よく知っています。幸いにして彩は父上の血を濃く引いています。母や私の病とは関係なく過ごせましょう」


 胸に添えていた手は握られ、衣服に強い皺を作る。

 まるで張敬の心痛を体現しているかのようで、黄皓は、目を反らすしかなかった。


「今の私にできる事は、陛下のお気持ちを煩わせない事。北伐と言う大事な時期に、無駄な心配はかけられません。陛下は、禅は、この国そのものなのですから」

「無駄などと……」

「黄皓、私の死後についてです」


 一つ、大きく深呼吸をする。

 それでもまだ、張敬の声は震えていた。


「私は母上と同じように、眠りながら、突然息を引き取り、目覚める事がなくなるでしょう。ただ、このことを誰にも知られるわけにはいきません。黄皓、その時は私の死を隠し通しなさい。せめて、北伐が終わるまでです。決して、誰にも悟られてはなりません」

「陛下に、奥方様に仕える身として、それはあまりに酷な命令で御座います」

「それでもやるのです。陛下でも、私の為でもなく、この国に対して忠義を尽くしなさい」


 以前より張敬が憂いていたのは、このことであった。

 黄皓は確かに、忠義者である。劉禅に対してなら、全てを捨てる覚悟すら持っているのは分かっていた。

 しかし、それは危険なのである。

 董允の如く、臣下という存在は、国に忠義を尽くさなければならないからだ。

 黄皓は、その意識が圧倒的に欠けている。


「私の死を、禅と彩は、この上なく悲しんでくれるでしょう。そんな二人を支えるのが、そなたの役目であり、使命です」

「胆に、銘じます」

「そして、私の後の皇后に、李昭儀(りしょうぎ)を立ててはなりません」


 昭儀とは、側室を表す位である。彼女は名を、李伊といった。

 まだ若く、溌溂とした明るさと、幼さの残る可愛げな容姿を備えている。

 黄皓が劉禅の為に拾い上げてきた少女で、劉禅の激情をそのままに、艶やかな肢体に喜んで受け入れる事が出来る稀有な女性である。


 李伊には後宮内の権力闘争など全く興味は無いらしく、ただ純粋に、劉禅を慕っているだけだった。

 しかし、このひた向きなまでの純粋さは、劉禅の心を掴み、国を傾かせかねない。

 皇后とは、皇帝を支える存在でなければならない。張敬はそのことを、良く分かっていた。


 考えを同じくしていたのか、黄皓もそれにはすぐに頷く。

 張敬は、安心したように息を吐いた。


「あとはただ、循が健やかに育ってくれるのを望むのみです。別に皇帝にならずとも、元気で生きてくれるだけで、それだけで良い」

「……それでは、失礼します」


 部屋を出る。

 すすり泣く声が、小さく聞こえた。


 諸葛亮という柱を失い、更に張敬を失う。劉禅の心痛は、如何ほどであろうか。

 劉禅や張彩、劉循を残して死に臨まなければならない張敬の心痛は、如何ほどであろうか。


 それを想うだけで、黄皓は張り裂けんばかりに胸が痛んだ。

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