第40話
蒋琬の後任には、費褘が就いた。
呉班の後任として武官をまとめるのは、長年、南蛮の住む地域の統治を任されていた馬忠将軍である。
蜀という国の半分を占める南蛮地方。
先帝である劉備の起こした、蜀と呉の全面戦争の「夷陵の戦い」で、蜀の国力は滅亡してもおかしくない程に落ち込んだ。
そこで諸葛亮が国力の回復の為に行ったのが、未だ統治の行き届かないでいた南蛮地方の慰撫である。
南蛮には多種多様な民族が住み、文明がまだ行き届いていないような地域であった為、誰かに統治されることを激しく拒んでいた。
その独立自尊の気風は、涼州の民よりも強いものであるといえる。
なぜここに諸葛亮が目を付けたのかと言うと、この南蛮地方は開拓が進んでおらず、鬱蒼とした自然豊かな土地である為、様々な鉱石や特産品が多く入手できたからだ。
これを用いれば、一気に国は豊かになる。それを見越して兵を進め、抵抗の強い部族を叩き、南蛮で大きな勢力を持っていた族長の「孟獲(もうかく)」に統治を任せた。
孟獲もそれに帰順し、南蛮はよく治まった。
というのが、良く言われている通説である。
しかし実際は、諸葛亮が兵を引き上げると、再び南蛮の地方では大小様々な反乱が多発したのだ。
反乱が起きるたびに諸葛亮が直々に兵を進めてはきりが無い。
そこで南蛮へ常駐し、慰撫を任されたのが、主将に馬忠、副将に張嶷、この二人の将軍達である。
現在、この地方が良く治まっているのは、二人の功績によるところが大きかった。
馬忠は、寛大で度量が大きく、民にはよく恩恵を施し、清々しい顔で笑う気持ちの良い男であった。
その人柄は南蛮の民族に広く親しまれ、馬忠が南蛮を去って成都へ帰還する際は、多くの民が泣きついて別れを惜しんだほどであった。
こうして、文官、武官共に、柱石は定まった。
しかし、後宮の方は、未だそうもいかないでいた。
それほど張敬の存在は大きかったのだ。失って初めて、その偉大さが身に染みた。
更に、皇太子であった幼き劉循の死も重なり、劉禅は今、失意の底にあった。
皇帝としての勤務はつつがなく行っていたが、その心身の衰弱は、誰の目に見ても明らかである。
後宮もまた、水面下で不穏な空気が漂い始めていた。
皇后が亡くなり、皇太子も亡くなった。
つまり、権力を手に出来る席が一気に空白になったという事である。
黄皓の見た限りでは、後宮内の勢力は二つに分かれていた。
一つは、劉禅の寵愛を最も受けていた李詔義。
そしてもう一つは、元々は張敬の侍女であり、劉禅が手を出してしまった王夫人である。
この王夫人は既に劉禅の子を宿しており、また家柄も良かった為、男児を産む事が出来れば、皇后は確実と言われていた。
しかし、李詔義の勢力もまた大きかった。やはりそれほど、劉禅が彼女に入れ込んでいたということであろう。
王夫人も、李詔義も、本当は皇后への執着など無かった。ただ、周りはそうもいかない。
彼女達を皇后へ押し上げる事で、自分らもその恩恵に預かろうとしているのである。
それは、侍女や宮女、宦官も含めてそう画策しているのだ。
黄皓はひとまず、この二人の身を守ることに専念した。
そして今、一時的に後宮を管理しているのが、先帝劉備の皇后にして、劉禅の義母、呉懿将軍の妹である穆皇后である。
既に齢は七十の半ばを過ぎている。
隠居の身であったが、急変に伴って、後宮を管理する事になった。
現在、この後宮の主を決める事が、国政の最優先である。
穆皇后は高齢で病がち、あまり無理をさせられないのだ。
黄皓が裏から波風立てずに抑えるのも、限界があった。
劉禅が早く次の皇后を立てれば済む話なのだが、今の状態でそれを強いるのは、些か酷でもある。
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