第43話

 ここは、宮殿における、劉禅の自室である。

 広い机に、竹簡が山と積まれ、壁には広く益州の地図が掛けられてあった。

 ただ、その他には何もない、殺風景な部屋である。

 飾り物も武具も無い。後は綺麗に整えられた寝床があるばかり。


 あの竹簡が何なのかは、宮中の物ならよく知っていた。あれは、益州における戸籍や石高の詳細な帳簿である。

 宮中に居ては民の暮らしを知る事が難しいと、劉禅がわざわざ文官に運ばせているのだ。

 これに一通り目を通すのは、諸葛亮の代から続いていた、劉禅の一種の趣味の様なものであった。

 蜀の主として、民の、臣下の暮らしの事だけを案じ続けて来たのだ。

 それ以外、何もやってこなかった人生だと言っても良い。


 張彩は、そんな劉禅が誇らしかった。


 既に、婚儀、そして、張彩が皇后となる儀式の方も、速やかな準備が行われている。

 従ってこの宮中も、全体的に落ち着かず、常に騒がしさが付きまとう。

 ただ、この一室のみが異様な静けさであった。


「彩、私はこれでもこの国の皇帝だ。お前が望むなら、無理にでもこの婚儀を取り止めに出来る。もう、張敬も逝き、私に気を使う必要もない。お前には、幸せになってほしいのだ。好きな男と子を成し、幸せに暮らしてほしい」


 疲れ果てた笑顔で、劉禅はそう言った。

 互いに年を取ってしまった。今や劉禅は三十も後半、張彩も三十に入っている。

 今の今まで張彩が嫁に行けなかったことを、自分のせいだと、劉禅はどこかで思っていたに違いない。

 自分が頼りないせいで、要らない心配をかけていたのだと。


 張彩は、涙を落とした。

 そうではない。そうではないのだ。

 決して、一生言わないと、そう心に決めていた。覚悟もした。

 その言葉が今、涙と共に、こぼれ出た。絶対に言ってはならない言葉である。


「私は、私は……兄様を、陛下を、ずっと、お慕いしておりました」


 そう言って、張彩は地に膝を付けて、その大きな体を折り曲げた。

 言ってしまった。

 後悔で押し潰されそうな不安が、臓腑を押し潰そうとしてくる。息も出来ない程に苦しかった。


「……それは、まことか?」

 劉禅は問うが、張彩は反応を返さない。

 それを見て、全てを察した。そして「そうか」と、小さく呟いたのみである。


 何か、きっかけがあったわけでもない。物心ついたころから、張彩は劉禅の事を好きになっていた。

 常に姉と、三人で一緒の日々だったのだ。

 最も身近な男性に心を惹かれ、時を重ねるにつれ、その思いは疑いようのないものになっていった。

 それでも、それを口には出さなかった。

 劉禅は姉を、また、姉も劉禅を慕っていることを、知っていたからだ。そして、それはそれでよかった。


 ならば自分は、二人の幸せを守る人間になろうと、張彩は幼いながらに心に決めたのだ。

 かつて父が、先帝である劉備を守り続けてきたように。自分もそう生きるべきだと思った。

 だからこそ戦場を望み、二人の為に戦って死ねるのなら、これほどの幸せは無いと思うようになった。

 その時に劉禅が、自分の為に涙を流してくれたら、この秘した心も報われるだろう。

 しかし、自分が死ぬよりも早く、守るべき人が、姉が、死んでしまった。


「彩、ならば尚更、この婚儀は取り止めねばならん。後宮からも去れ」

「無礼を、お許しください。夫婦などという、不相応な願いを持った私が愚かでした。それでも、陛下のお傍で、御身をお守りしたいのですっ。どうか、お許しを」

「勘違いしないでくれ、お前と離れたいわけではない。しかし、私は今後一生、お前の奥に、張敬を見るだろう。お前と言葉を交わしても、私は、お前の奥にある張敬の面影と語るだろう。それは、お前の気持ちを、踏みにじるものだ。ならばもう、互いに会わぬ方が良い」


 誠意に満ち、しかしどこまでも冷たい。

 姉がどれほど劉禅に愛されていたのか、眩しくなるほどによく分かった。

 羨ましいと、心底思ってしまう。そう思ってしまう自分を、張彩は嫌悪したが、もうどうしようもなかった。


 そのひと欠片でも、分けて欲しい。

 諦めようにも、慕い続け、その思いを秘め続けた時間が、あまりにも長かった。


「私の生きる目的は、兄様と姉様の二人を、お守りし続ける事です。そして、私の死に、二人が涙してくれれば、思い残す事は御座いません。なので決して、兄様の傍からは離れません。私の奥に姉様を感じ、忘れずにいて下さるなら、私は喜んでその役に徹しましょう」

「しかし……」

「これが、私の幸せなのです。婚礼の儀、心よりお待ちしております」


 これで良かったのだ。

 部屋から飛び出し、声を出さずに、泣きじゃくった。

 一生、愛する男の隣に居ながら、その一生を、愛されずに生きる。

 もう、この想いが報われることは無い。

 諦められるなら、どれほど楽であろうか。もういっそ、この気持ちを消してしまいたい。

 涙が、とめどなく溢れた。

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