第26話

 全力で馬を走らせる。これは、飛躍の為の大きな好機だ。鄧艾は闘志を剥き出しにしていた。


 旗下の八百。まるで、自らの手足の様に感じる。

 声を発さずとも、合図を出すだけで自由自在に動かす事が出来た。


 数日前、間者から驚くべき知らせが入った。

 姜維が自ら少数の兵を率いて涼州の奥深くまで足を進めていたらしいのだ。

 警備も厳重にしていたのに、全く気付かなかった。

 涼州に地盤を広げる大豪族「迷当」の二千の騎兵を僅か五百の新兵で、一人の損害も出すことなく蹴散らしたらしい。

 その後の動向も追っていたが、すぐにまた、行方知れずとなった。何を考えていたのか、それは全く分からなかった。


 かつて、漢中を守っていた蜀の猛将「魏延(ぎえん)」と同じような事をしているのか。

 僅か数千の精鋭で堂々と涼州に侵攻。

 数万を率いる郭淮の迎撃部隊を散々に蹴散らし、涼州の民や豪族にその武威を見せつけた事がある。


 姜維も同じく、戦の前に武威を見せつけたかったのだろうか。

 しかし、彼らは念入りに足跡を消していたのだ。武威を見せつけるのなら、そのような真似はしない。


 しかし今朝、その姜維が今度は、国境付近に進軍中であると言う。

 その数は千。また、調練代わりの出兵であろう。

 まさに神速。

 果断すぎる進軍に舌を巻きつつ、ここで姜維を討ち取れば、蜀軍は攻め手を大いに欠くはずだと、鄧艾はすぐさま兵を起こしたのだ。



 姜維が進軍している先は、鄧艾の兵士が守備を受け持つ山岳地帯であった。

 少量ではあるが、国境守備兵の為の食料が備蓄されている場所でもある。


 そこを守備している兵は、およそ八百人程。

 しかし山岳で、国境守備兵ということもあり、その数は広範囲に散らばっていた。


 鄧艾はまず伝令を走らせ、守備兵を一か所に集めさせる。そして、指示道りに迎撃の準備を整えさせた。

 地形は全て頭の中に入っている。どのような敵が来ても、対処は可能だという自信がある。

 こちらに向かっている蜀軍は、姜維の側近の五十騎以外は全て歩兵だと言う。

 恐らく山岳の戦を得意とした兵士の、調練代わりの進軍であろう。


「鄧艾様、蜀軍との距離は、およそ二里ほどです」


 配下の兵から、静かに報告を受け、鄧艾は頷いた。

 鄧艾は守備兵の中に加わり、自ら指揮を執る。連れて来た兵士は、全て所定の位置に隠した。


 苔生した土から、白い岩肌が剥き出しになっている山林。

 複雑な地形であり、現地の人間ですら入りたがらない所である。

 その細道に柵を設け、関所の役割を簡易的に作らせている。そこで静かに、到来を待った。


 もう既に目の前まで来ていることは確かなのだが、枯葉を踏む音すら聞こえない。

 突き刺す程に鋭い殺気だけが、鄧艾の体を締め付ける。


「─────突撃!!!!」


 どこから響いただろう掛け声と同時に左右正面から蜀軍が現れた。

 まるで岩肌から湧きだしてくるような、鮮やかな攻勢である。

 配下の兵が「魏」の旗を大きく掲げ、柵の中から弓矢を大いに射かける。

 鄧艾も矢を穿ち、放つ。一人、二人と、狙った敵の額を貫いた。


 しかしやはり、益州の地にある険しい山々で調練を積んだ蜀軍の山岳兵は、強かった。

 地の利を生かして弓矢を避け、柵を剥がし、魏兵に殺到する。

 完全に陣が崩壊する前に、鄧艾は撤退の合図を出した。


 敵兵は、戦利品に目もくれず、執拗な追撃を掛けてくる。


 これが、姜維。


 予定通りに事を運んでいるはずなのに、鄧艾は全身で恐怖を感じた。

 どうして、敵将自ら足を運んでいることを知っているのが、自分だけだなんて思っていたのだろうか、と。


 きっと姜維も気づいていたのだ。

 鄧艾が自ら防衛に出てきていることに。罠にかけられる前に、殺す。

 この執拗なまでの追撃は、その意志の表れであった。


「っ……い、今だああっ!!」


 まるで獣の様な野太い声で、鄧艾は慌てて叫んだ。

 場所は、岩肌の露出が無い、山中の湿地に変わっていた。

 長草や池の中から鄧艾の伏兵が現れ、蜀軍を包囲するように押し寄せた。

 どこに深いぬかるみがあるか、鄧艾の兵はそれを熟知しており、足を取られている蜀兵を優先して殺していく。

 全滅だ。鄧艾が、勝利を確信した瞬間であった。


「将軍っ!!」

「え」


 側近の兵が鄧艾の左へ飛び込み、肩から胴にかけて一瞬で両断される。


「その首、貰うぞ」


 姜維だ。

 顔も、声も知らないはず。

 名前だけしか知らない男のはずなのに、はっきりと分かった。


 鄧艾も雄叫びを上げ、鋼製の強弓を思い切り振るう。

 剣とぶつかり、弾き飛ばされたのは、鄧艾であった。

 単純な力勝負で押し負けたことなど、生まれて初めてである。

 しかも姜維は体格がそれほど大きいと言うわけでもないのに、だ。

 周囲の兵士らが、慌てて主君を守る様に割って入り、身を盾とした。


「戻るぞ!!」


 一瞬の出来事である。包囲が崩れたのを見ると、蜀軍はあっという間に撤退していった。


 殲滅する。

 その覚悟で臨んだ戦は、後に計算したところ、魏兵の屍の方が多い有様であった。

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