4月25日(水) 曇りのち雨 2

「どう? 芽衣ちゃん。少しは落ち着いた?」

「……はい」

 肩にバスタオルをかけてもらった私は、さくらさんがいれてくれたミルクティーを、両手で包む。ゆっくりとひとくち飲んだら、頭の痛みが少しだけ引いた気がした。

「髪、乾いたかな? 濡れたままだと風邪ひいちゃうから」

 さくらさんの指先が、私の肩までの長さの髪に触れる。私は静かに目を閉じる。なんだかすごく気持ちがいい。

「もう……大丈夫です。ほんとうにありがとうございました」

「私はなにもしてないよ? ミルクティーいれただけ」

 目を開くと、いたずらっぽく笑うさくらさんの顔が見えた。なんだか恥ずかしくなって、はずしていたマスクをつけて顔を覆う。

「あの……私……」

 そう言いかけたとき、厨房の奥から音羽くんが出てきた。

 音羽くんはさっきの制服姿ではなかった。奥には、二階の住まいに続く階段があるから、自分の部屋で着替えてきたんだろう。


「あ、あのっ!」

 私があわてて立ち上がると、音羽くんは立ち止まって、私の顔をにらむように見た。

「あのっ、さっきは……すみませんでした」

 音羽くんの前で頭を下げる。

 歩道の真ん中でうずくまっていた私は、音羽くんに傘をさしかけてもらって、なんとか立ち上がった。音羽くんは「家まで送る」と言ってくれたのに、私は「さくらさんに会いたい」とわがままを言って、ここまで連れてきてもらったのだ。

 音羽くんは私の髪や服や顔を、ひと通りにらみつけたあと、ぼそっとひとことつぶやいた。


「泣き虫」

「な、泣いてないです」

「泣いてたじゃん。よく泣けるよな、あんな公衆の面前で」

「ちがっ……」

 言い返したかったけど、そこでやめた。

 今日私は、たまたま通りかかった音羽くんに助けられたから。もし音羽くんが来なかったら、私はあの場所でずぶ濡れになって、もっと恥ずかしい思いをしただろう。

「違うけど……ありがとうございました」

 音羽くんは「ふんっ」と私から顔をそむけ、手に持っていた緑色のエプロンをつけた。

 あ、なんか似合ってる。

 さくらさんとおそろいのこのエプロンをつけると、音羽くんも立派な店員さんに見える。


「外に傘立て、出てなかったぞ」

「あ、いけない!」

「ったく。しっかりしろよ」

 音羽くんはぶつぶつ言いながら、店の外へ出ていく。

「怒られちゃった」

 さくらさんが肩をすくめる。私はそんなさくらさんを見て、小さく微笑む。

「でもあんな言い方しなくてもいいのにね。ほんと、かわいくないんだから」

 さくらさんはそう言うけれど……。


 でも音羽くんはここに来るまで、私と並んで歩いてくれた。私が言いたくないことは、なにも聞かないで。ただ私の隣を、私の歩幅に合わせて、ゆっくり歩いてくれた。

 音羽くんもさくらさんと同じように、きっとやさしい。

「だけど私は……助けてもらいました」

 さくらさんがふっと頬をゆるませる。

 甘いパンの香り。あたたかい店内。さくらさんの笑顔――やっぱりここに来てよかった。音羽くんに連れてきてもらってよかった。

 でも頼ってばかりじゃだめだな。なにかさくらさんたちにお礼がしたい。私にできることって、なにかないかな……。


「雨、やまねぇなぁ……」

 音羽くんが言いながら、中に戻ってくる。

「あのっ、私……」

 私の声に、さくらさんと音羽くんがこちらを見る。

「なにかお手伝いできること、ありませんか?」

 咄嗟に言ってしまった。するとさくらさんがやさしい声で言う。

「いいんだよ、芽衣ちゃんは気を使わなくて。お客さんなんだからさ」

「は? こいつのどこがお客だよ。タダでパン食ってるだけじゃん」

 さくらさんが音羽くんの頭を小突く。私はそんなふたりの前で苦笑いをする。

「芽衣ちゃん、ほんとごめんねぇ。うちの息子、口が悪くて……」

「だったらさ」

 さくらさんの言葉を、音羽くんがさえぎる。

「店番やってよ。俺の代わりに」

「え……」

 音羽くんはエプロンの紐をほどくと、それを脱いで私に押し付けた。

「じゃ、頼んだ」

「音羽!」

 さくらさんが音羽くんをにらむ。でもすぐに「うーん」とうなって、それからにっこり微笑んだ。


「でも、それいいかも。芽衣ちゃんがお店番してくれたら、私はパン作りに集中できるし」

「だろ? こいつヒマそうだし、ちょうどいいじゃん」

 ひ、暇そうとか……。でも本当のことだから仕方ない。

 さくらさんも音羽くんも、私が学校に行ってないこと、気にならないのかな。

「じゃあ、芽衣ちゃんに、お店番お願いしちゃおうかなぁ」

 どうしよう。いきなりお客さんの相手とか、ハードル高すぎる。緊張する私の前で、さくらさんが言う。

「音羽がちゃんと、教えてあげるんだよ?」

「は? 俺?」

「当たり前でしょ。あんたが芽衣ちゃんの先生ね。よろしく頼んだ!」

「ちょっ、おい!」

 さくらさんはおかしそうに笑いながら、奥の厨房へ入ってしまった。取り残された音羽くんは、めちゃくちゃ不機嫌そうだ。私はそんな音羽くんをちらっと見る。


「あの……」

 声をかけようとした私に、音羽くんが手を伸ばした。

 えっ、なに?

 思わず目をつぶった私の身体に、ふわりとなにかが掛けられる。目をあけると、音羽くんが緑色のエプロンの紐を、私に結んでくれていた。

「しょうがねぇ。命令だからな」

 あれ、音羽くんって、意外とさくらさんの言うことは素直に聞くんだ。

 私が感心していると、店のドアがカランと音を立てた。お客さんだ。


「いらっしゃいませぇ」

 音羽くんが言う。そして「ほら、お前も」と小声でささやく。

「い、いらっしゃいませ……」

 すると目の前のおばさんが「あら、まぁ」と、物珍しそうに近寄ってきた。先週もお店に来たお客さんだ。

「今日はまた、かわいい店員さんがいること」

「全然使えないんですけどね」

 そんなこと言わないで欲しい。まだはじめたばかりなんだから。

「音くん。クロワッサン、焼けてるかしら」

「クロワッサンですね。おい、お前、奥行って聞いて来い」

「あ、はいっ」

 私が厨房へ駆け込むと、さくらさんは「焼けてるよぉ」とにこにこしながら、私にパンの入ったカゴを持たせてくれた。

 それを持ってお客さんに見せる。


「今日もおいしそうね。五つちょうだい」

「ありがとうございます」

 音羽くんに教えてもらいながら、まだ焼き立てのパンを崩さないように袋に入れる。おいしそうな匂いが、お店の中にふわふわと漂う。

 音羽くんがレジを開けて、お客さんにお釣りを渡した。

「ありがとう。うちが食べるクロワッサンはね、このお店のって決めてるの。音くんのお父さんのパンを、またさくらさんが作ってくれて、本当に嬉しいわ」

「ありがとうございます」

 頭を下げた音羽くんの隣で、私も頭を下げる。おばさんはクロワッサンを大事そうに抱えて、お店を出ていく。

「ありがとうございました!」

 私はいま出せる、精一杯大きな声でそう言った。


 そのあとも、数人のお客さんの相手をしていたら、あっという間に時間が経った。夢中になっていたからか、いつの間にか頭痛も治まっていた。

 気づくと夕方近くなっていて、私はあわててさくらさんに頭を下げる。

「すみません。今日はここまでで」

 そろそろ家に帰らないと、下校時間と重なる。

「ありがとう。すごく助かった。はい、これおみやげ。クリームパンも入れといたから」

 さくらさんがそう言って、私にパンの入った袋をさしだした。

「そんなっ、いただけません。これじゃなんのためにお手伝いしたんだか」

「そうだよ。それじゃ意味ねぇし」

「いいの、いいの。よかったらお父さんとお母さんにも分けてあげて」

 さくらさんは強引に私に袋を押し付ける。

「また来週の水曜日も、来れたらおいで」

 私はさくらさんの声にうなずいた。


 店の外まで、音羽くんが一緒に出てきた。音羽くんは私の傘を傘立てから取って、私に渡してくれた。

「もうこけるなよ?」

 ああ、そうか。さっき私がうずくまっていたのを、転んだんだと思っているんだ。

「もう……大丈夫です」

 私は音羽くんから傘を受け取りながら答える。本当は全然、自信がなかったけど。

 私は転んでばかりだ。中学生になってから、ずっと。


 雨はまだ降り続いていた。白くけむった空気の中に、私は傘を開く。

 トートバッグの中には、今日返せなかった本と、さくらさんの焼いたパンが入っている。

 雨の中にがんばって足を出す。ああ、がんばるって、こんなちっぽけなことか。私はがんばらないと、ただ歩くことさえできない。

 なんだか悲しくなって、一度だけ振り返った。降り続く雨の向こうに、店の前に立つ、音羽くんの姿が見えた。

 私はすぐに視線をそらし、傘の中に隠れるようにして坂道をくだった。


 その夜はすごく疲れて、ベッドに入ると、めずらしくぐっすり眠ることができた。

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