水曜日のパン屋さん
水瀬さら
第1章 雨とマスクとクリームパン
4月11日(水) 雨のち晴れ 1
雨の降る日、私はマスクをつけて外へ出る。
濡れた街は、夢の中のようにぼんやりとかすみ、騒がしい雑音は、雨音に消えていく。
大人たちは水たまりを避けながら、忙しそうに通り過ぎ、傘の陰でうつむく私の顔など、きっと誰も見ていない。
歩いて十分のところにある、古い市立図書館。
私は、雨が降るとここに来る。淡々と繰り返される毎日を、ただ消化するために。
はじめて来たときは、周りの視線が気になって、すごくどきどきした。学校を休んでいる中学生が、こんなところにいたら、誰かに怒られるんじゃないかって。
だけど私は怒られなかった。声をかけられることもなかった。時々ちくりと、冷たい視線を感じることはあったけど、そういうときは読んでいる本に集中する。物語の世界に浸っているときだけは、周りの視線も忘れられるから。
ただマスクだけは、どうしても手放すことができない。
携帯電話の時計を見ると、午後一時を過ぎていた。好きな本を読んでいる間は、時が経つのが早いから楽だ。
そろそろ帰ろう。
私は読みかけの本をぱたんと閉じる。これ、借りていこう。それと気になっている本も数冊一緒に。
カウンターで貸出手続きをして、外へ出る。雨はまだしとしとと降り続いていた。私はマスクを鼻の上まで押し上げ、水色の傘を開く。そしてスニーカーを履いた重たい足で、雨の中へ一歩踏み出す。
図書館に来た日は、いつもこの時間にここを出る。あんまり遅くなると、学校帰りの友達に会ってしまうから、それだけは避けたかったのだ。
いまの時間、お父さんもお母さんも仕事に出ていて、家に帰っても誰もいない。たいしてお腹はすいていないけど、朝お母さんが用意してくれた昼食を食べ、また本を読んだり、勉強をしたりして、ひとりで時間をつぶす。
今日もいつもと同じように、そうやって時をやり過ごすつもりだった。
生ぬるい風に乗って、一枚の花びらが舞い落ちた。薄紅色の桜の花びらだ。
立ち止まり、傘を少しだけ傾けた。私のそばを、スーツを着た大人が通り過ぎる。ちらりと顔を見られた気がして、私はまた傘で顔を隠す。
桜、咲いてるんだ。
学校に行かなくなって二か月ちょっと。季節は私を置いてきぼりにしたまま、春になっていた。
「ねぇ、あなた?」
突然声をかけられて、びくっとする。
恐る恐る顔を向けると、知らないおばさんが私の顔をじっと見ている。
『ねぇ、あなた。今日、学校は?』
次の言葉を想像して、身体が震えた。
私は傘で顔を隠すと、おばさんから逃げるように走り出す。
「あ、ちょっと待って!」
おばさんが私を呼んでいる。
背中を見られている気がして、目の前の角を曲がった。知らない道だったけど、何度か曲がって、長い坂道を駆け上がった。
雨が傘を叩く。すれ違うひとがみんな、私を見ている気がする。
私は逃げる。もっと逃げる。
息を切らして走った。マスクの中が息苦しい。水たまりが跳ねて、スニーカーに水が染み込む。肩にかけたトートバッグが濡れていることに気づき、それを胸に抱え込む。
気づくと坂道の一番上にいた。息をはきながら振り返ると、そこには誰もいなかった。
いるはずなんてないんだ。あのおばさんがこんなところまで追いかけてくるはずはないし、もしかしたらただ道を聞かれただけなのかもしれない。
片手で傘をぎゅっと握り、もう片方の手でバッグを抱きしめる。本が濡れていないか中を確かめようとしたとき、ざあっと大粒の雨が襲い掛かるように降ってきた。
やだ……なにこれ。
周りをきょろきょろと見回す。あたりは静かな住宅地だ。少し先に一本だけ大きな桜の木が立っていて、そのそばに小さなお店のようなものが見えた。
とりあえずそこまで走って、軒下に駆け込む。あっという間にあたりは真っ白くけむり、ざわざわと強い風が桜の木を不気味に揺らした。
どうしよう、これじゃ帰れない。
急に不安が押し寄せる。
雨の音が激しく屋根を叩いた。みんなどこへ消えてしまったのか、目の前の道を歩くひとも、走る車もいない。
それにここはどこなのか。あわてて走っているうちに、知らない所に迷い込んでしまった。家からはそんなに離れていないはずだけど。
そのとき私の後ろで、コツコツと音がした。驚いて振り返ると、中から女のひとが、窓を叩いて私を見ている。そして口をぱくぱくと開いて、にこっと笑った。
しかし私は首をかしげる。
私たちの間をさえぎる窓ガラスと、激しく降る雨の音で、そのひとが何と言っているのか、聞き取れなかった。
呆然としたまま、あらためて周りを見る。
ここは本当にお店だろうか。カントリー風の、可愛らしい木目のドアが入口のようだけど、普通の家と間違えて、通り過ぎてしまいそうだ。
唯一お店らしく立てかけられた看板には、『パンの店 さくら やってます』と手書きの文字と、パンのイラストが描かれている。
もう一度窓を見たら、女のひとはいなくなっていた。代わりにベルがカランっと鳴って、私の横でドアが開かれる。
「ねぇ、そこじゃ濡れちゃうでしょう? 雨がやむまで中に入ってたら?」
さっきのひとが私に言う。歳は私のお母さんくらいか、それとももうちょっと若いかも。髪はショートで、身体は小柄。細身のTシャツにジーンズをはいて、その上に深い緑色のエプロンをつけている。
私はとっさに首を横に振った。中に入ったら、なにか買わなきゃいけないと思ったからだ。私は出かけるとき、お金を持っていない。
けれど女のひとはにこにこと笑って、私の背中にそっと触れた。
「遠慮しないで。お客さんいなくて、寂しかったんだ」
その声はやさしくて、背中に触れた手は、とてもあたたかかった。
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