6月23日(土) 晴れ 3
音羽くんとパンを食べてから、病室へ戻った。寛太くんはママのベッドですやすやと眠ってしまっていた。
「パンをいただいたら、安心しちゃったみたいで」
寛太くんのママは寛太くんの髪をなでながら、私たちを見る。
「パンダさんのパン、おいしかったです。ありがとう」
「あんなのでよければ、いくらでも作ります」
ママがくすっと笑って、それから言う。
「それで、申し訳ないんですけど、今、主人から電話があって。一日早く出張先から帰ってこれるようになったから、今晩ここに寄るって言うんです。だから帰りは寛太と一緒に」
「あ、パパが迎えに来てくれるんですね」
「ほんとうにごめんなさい。こんな遠くまで寛太を連れきていただいて」
「全然、俺たち暇ですから。な?」
音羽くんが急に私を見る。私はあわててうなずく。
「よかったです。今日は家族三人会えますね?」
寛太くんのママが微笑む。
「じゃあ俺たち、帰ろうか」
「あ、それなら寛太を……」
「いえ、寝かしといてあげてください。きっと張り切り過ぎて疲れちゃったんだ」
うなずくママに、私は思い切って言ってみた。
「あの……ひとつお願いがあるんですけど……」
「なあに? 私にできることなら」
ママが私を見てやさしく笑う。
「あの、お腹……赤ちゃんがいるお腹、触らせてもらってもいいでしょうか?」
私の言葉に、寛太くんのママがまた微笑んだ。
ふっくらとしたお腹を触らせてもらった。
「ここに……カンちゃんの弟か妹がいるんですね」
「そうよ」
とても、不思議だ。
「私たちよりずっと小さいのに、この中でがんばって生きてるの。だから私も、がんばらないとね」
ふふっと笑ったママは、寛太くんの頭をやさしくなでる。
「カンちゃんにも、もう少し、がんばってもらわないと」
「俺たちでよかったら、またカンちゃん連れてきます」
音羽くんが私の後ろで言った。
「ほんとうに? ありがとう」
そっとお腹をなでてから、私は手を離す。
「ありがとうございます。赤ちゃん、楽しみです」
「私も」
ママが嬉しそうに、私に笑いかけた。
何度もお礼を言ってくれる、寛太くんのママに手を振って、音羽くんと病室を出た。
独特の匂いが漂う白い建物を出たら、あかるい日差しが私たちの上から降り注いだ。
帰りの電車は音羽くんとふたりきり。空いている席に並んで座った。私はさっきからずっと、寛太くんのママのお腹の感触を思い出していた。
「お腹にいた赤ちゃん……」
音羽くんの隣でつぶやいた。
「幸せになれるかな……」
音羽くんがちらりと私を見る。私は膝の上に乗せた両手を見下ろす。
「生まれてきてよかったって、思えるのかな」
パパもママも寛太くんも楽しみにしている、誰からも祝福されて生まれてくる命。
私だってそうだったはず。今だって、お父さんとお母さんから大切にされているってわかってる。それなのに、どうして……。
「あ、なんかごめんなさい。幸せになれるに決まってるよね」
私はふっと口元をゆるませ、手のひらをにぎる。
「ただ、私たちみたいに……辛い思いはして欲しくないなって、思って……」
そう思ったら、あの子が生まれてくることが、本当に幸せなのか、わからなくなった。
電車は走る。規則正しい音を立てて。ゆらゆらと不安定に揺れ動く、私を乗せて。
「……大丈夫だよ」
ぽつりと隣から声が聞こえた。
「わかんないけど……大丈夫だよ」
答えになってない答え。そうだよね、答えなんかないんだから。
「……うん」
かすかにうなずいた私の手に、音羽くんの手が重なった。大きくてあたたかい手。
ああ、音羽くんは生きているんだ。
「いまはさ、俺、思ってる」
前を向いたまま、音羽くんがつぶやく。
「死ななくてよかったって。生きててよかったって……思ってる」
「うん……」
重なった音羽くんの手が、私の手をにぎりしめる。ぎゅっと強く。力強く。
「私も……強くなりたいよ」
膝の上で重なる手を見つめて、つぶやいた。
「音羽くんみたいに……強くなりたい」
音羽くんはなにも言わなかった。なにも言わないまま、ずっと私の手をにぎってくれていた。
やがて私たちの降りる駅の名前が、車内に響いた。
「今日は、どうもありがとう」
駅を降りて、家まで音羽くんに送ってもらった。空はまだ明るい。
「パンもおいしかった。ありがとう」
「ああ……うん」
電車を降りた頃から、音羽くんの様子が変だ。あんまりしゃべらないし、ずっと何かを考えてるみたい。
「それじゃあ……」
玄関のドアに手をかけた私に、音羽くんが言った。
「あのさっ」
私は振り返って音羽くんを見る。
「お前、ひとつ、間違ってることがある」
「え……なに?」
「俺は全然、強くないから」
黙って音羽くんの顔を見る。音羽くんはちょっと困ったように頭をかく。
「お前間違ってるよ。俺は全然強くないって。どこが強いんだよ。間違ってる」
頭をかきながらぶつぶつ言ったあと、その手を下ろして私を見た。
「俺はっ」
そのはっきりした声に驚いて、私は姿勢を正す。
「お前の方がすごいと思う。ちゃんとがんばってると思う」
「え……」
「俺は……芽衣みたいに、がんばろうって、いつも思ってる」
「私……なんにもがんばってないよ?」
「がんばってるじゃん。いろんなことちゃんと考えて、必死にがんばってるじゃん。だから俺、お前のそういうとこが……」
「芽衣? 帰ったの?」
突然玄関のドアが開いた。中からお母さんが顔を出す。
「お母さん……」
「あら、お帰りなさい。音羽くんも」
「あ、どうも。いま帰りました」
音羽くんがまた頭をかく。
「音羽くんがね、送ってくれたの」
「まぁ、ありがとうございます。よかったらあがってって?」
「いえ。僕はここで」
リュックを背負った音羽くんが、お母さんの前でぺこりと頭を下げる。
「じゃあ、またな」
音羽くんはなんだかすごくあわてている。
「あ、うん。また……」
背中を向けた音羽くんは、逃げるように私の前からいなくなった。
「あがっていけばいいのにねぇ?」
お母さんの声に、私は曖昧にうなずく。
音羽くんが言いかけた言葉。
『だから俺、お前のそういうとこが……』
その続き、なんて言おうとしてたんだろう。
「どうだった? 寛太くんとお母さん、喜んでくれた?」
「うん。喜んでくれたよ」
「いいことしたじゃない」
私の前でお母さんが嬉しそうに微笑む。私はそんなお母さんと一緒に家に入る。
その日は音羽くんの言葉の続きが気になって、疲れていたのになんだか眠れなかった。
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