第5章 ひとりぼっちの世界

7月18日(水) 晴れ 1

 寛太くんのママに会いに行ったあとも、私は別室登校を続けた。たとえ別室でも、学校に行くのはすごく勇気が必要だった。先生が特別に、登校時間と下校時間を、みんなとずらしてくれたけど、愛菜ちゃんたちに会ったらどうしようと、いつもどきどきしていた。

 他の不登校の子と一緒に、使われていない教室で、勉強をした。授業中は、他の子に会うことはないから、勉強に集中できた。

 担任の男の先生は、見た目はがっしりしていて怖そうだけど、いつも私のことを気にかけてくれた。

「たまには教室に遊びにこいよ」

 なんて、友達みたいに誘ってくれる先生だった。まだ教室に行く勇気はなかったけれど。


 スクールカウンセラーの先生と話す機会も作ってくれた。いままでは何か聞かれるのが怖くて避けていたけど、少しずつ、自分の気持ちを話せるようになってきた。

「教室に行くのが怖いんです」

「友達の声も怖いんです」

「でも勉強はしたいです」

「高校に行きたいです」

「行きたい高校があります」

 穏やかに微笑んでいる女の先生は、マスクの中から不器用に吐き出される私の言葉を、全部うなずきながら聞いてくれた。


 学校に行くと疲れてしまって、家に帰るとひたすら眠った。だからさくらさんのパン屋さんにも、なかなか行けなくなった。

 そしてやっとパン屋さんに行けたのは、寛太くんのママの病院に行ってから三週間以上が経った、夏休み前の水曜日だった。

 その日は学校が午前中で終わったので、私は一回家に帰って昼食を食べてから、制服のまま外へ出かけた。梅雨明け間近な夏の日差しが、ギラギラと照りつける午後だった。


 坂道の上には今日も看板が立っていた。『やってます』という文字を見て、ほっと安堵する。

「芽衣ちゃん? 久しぶり!」

 中に入ると、さくらさんが満面の笑顔でそう言った。

「今日は制服? かわいいじゃない! うん、いい。すごく似合ってる」

「ありがとうございます」

 さくらさんに見て欲しくて、わざと制服のままで来たんだ。

「学校、行ってるんです。まだ別室登校だけど」

「うんうん。えらいよ。がんばってるね。芽衣ちゃん!」

 私、がんばってるのかな……よくわからない。


「あの、今日、音羽くんは?」

「まだ学校。最近あの子も真面目に通ってる。どこかでサボってなければ、だけどね?」

 さくらさんがいたずらっぽく笑う。私もそんなさくらさんに笑顔を見せる。

 音羽くん、早く帰ってこないかな。音羽くんにも制服姿、見て欲しいんだ。

「なにか、お手伝いすることありませんか?」

 さくらさんに聞いてみる。さくらさんはにっこり笑って、「じゃあパンを並べるの、手伝ってくれる?」と、焼き立てのパンを指さして言った。


 パンをカゴに並べて、お店に運ぶ。焼き立てパンの良い香りが、店内に漂う。

「こんにちは。あら、芽衣ちゃん、久しぶりじゃない」

「こんにちは。お久しぶりです」

 常連の中村さんだ。今日もクロワッサンを買って行く。そういえば市郎おじいちゃん、元気かな。詩織さんも、がんばって働いてるのかな。カンちゃんは保育園で泣いてないかな。

 お客さんの顔が次々と頭に浮かぶ。みんな笑っているといいなと思う。


 クロワッサンを抱えた中村さんが言った。

「じゃあ、さくらさん、また来週」

「あ、中村さん!」

 さくらさんが引き止める。

「突然で申し訳ないんだけど、今日でお店を、しばらくお休みしようと思ってるの」

「あら、どうして?」

 中村さんが顔をしかめる。さくらさんは笑って答える。

「ごめんなさいね。ちょっと体調崩しちゃって。生まれてはじめてのドクターストップ」

「やだ、大丈夫? あなた働き過ぎなのよ。本職もあるんだから無理しないで」

「ありがとうございます。復活したら、またぜひお願いします」

「もちろん。うちはお宅のクロワッサンしか食べないから」

 ふたりで笑い合ったあと、中村さんが帰って行く。それを見送るさくらさんに、私は駆け寄った。


「さくらさん! いまの話……」

 ゆっくりと振り返ったさくらさんが私を見る。

「ごめんね。驚いちゃったよね? 前に受けた健診の結果があまり良くなくてね」

 そう言えば前に、健康診断を受けたと言っていた。そのあとも用事があると、何度か出かけていたけれど、もしかして病院に通っていたのかもしれない。

「具合……悪いんですか?」

「ううん。この通り、自覚症状はなくてピンピンしてるの。だけどね……」

 そこで一回言葉を切ったあと、さくらさんは私を真っ直ぐ見て言った。

「悪性の腫瘍がね、見つかっちゃって」

 私は言葉を失った。悪性の腫瘍って……恐ろしいイメージが次から次へと頭に浮かぶ。

 そんな私の前で、さくらさんはいつもの笑顔を見せる。


「でも心配しないで。手術ですぱっと取っちゃえばいいの。ただその時期を、少し早めなくちゃいけなくなって……来週には入院することになったの」

 急がないと、いけないってこと? 心臓がどくどくと音を立てる。

「ごめんね。本当に急で……」

 私は首を横に振った。

「だけどすぐに戻ってくるから。だって市郎さんや、詩織ちゃんがパンを買いに来たら困るでしょ。カンちゃんちの赤ちゃんも見たいしね」

 さくらさんの言葉に曖昧に笑って、それから聞いた。大事なことを。


「音羽くんには……」

「あの子にはまだ話してないんだ」

 さくらさんが少し顔を曇らせる。

「早く話さなきゃって思ってたんだけど、なかなか言い出せなくてね。言い出せないうちに、来週入院だなんて。いきなり過ぎて、怒られちゃうよね」

 ふふっと笑うさくらさんは、さっきまでの元気がなくなっていた。

「ひとつ心配なのはね……」

 さくらさんの声がぽつりと響く。

「うちって主人もいないから……私が入院したら、あの子この家でひとりになる」

 私はさくらさんの声を聞く。

「もし私がいなくなったら……あの子はこの世で、ひとりぼっちになってしまうの」

『もし私がいなくなったら……』

 その言葉の意味を考えて、身体が震えた。さくらさんの声は、私の胸にずしりと重くのしかかった。


 カランとドアのベルが鳴る。

「あれ、お前いたんだ」

 久しぶりに聞く、音羽くんの声。音羽くんはいつもの制服姿で、いつものリュックを背負っている。

「ひ、久しぶり」

 音羽くんが私のことをじいっと見る。私は身体を固くする。

「エプロンの下、もしかして制服?」

「うん……そう」

「芽衣ちゃんね、学校行ってるんだって」

 さくらさんが横から言う。さっきまでの話はなかったかのように。

「へぇ……」

 音羽くんはどうでもいいようにつぶやくと、カゴからパンをひとつつかんだ。

「これ、もらうよ」

「コラ、音羽! ちゃんと手を洗いなさい!」

 音羽くんが逃げるように厨房の中へ入っていく。さくらさんがその背中に文句を言っている。いつもと変わらない、ふたりのやりとり。だけどなんだか今日は胸が痛い。


「芽衣ちゃん」

 音羽くんが店からいなくなると、さくらさんがつぶやいた。

「さっきの話は、あとで私からするから。だから……ごめんね?」

 私はなんて言ったらいいのかわからなかった。そんな私の前で、さくらさんが穏やかに微笑んだ。

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