1月30日(水) 晴れ 1

「芽衣ちゃん!」

 北風の吹く夕暮れ。今日もパン屋さんに向かって急いで歩いていたら、思いがけない人に声をかけられた。

「芽衣ちゃんだよね?」

 振り返ると、そこに立っていたのは、あの詩織さんだった。長かった髪が、ばっさりと短くなっている。こんなこと思ったら失礼かもしれないけど……前よりなんだか、かわいらしい。

「元気だった?」

「はい」

「これからさくらさんのお店に行くのかな?」

「そうです」

「私も! 一緒に行こう」

 詩織さんがそう言って、嬉しそうに微笑む。

 聞けば詩織さんは実家に用事があって、今この町に着いたばかりなのだそうだ。


「芽衣ちゃん、三年生だったのかぁ。もうすぐ受験?」

「はい」

「どこ受けるの?」

 私が高校名を告げると、詩織さんはさらに明るい笑顔になった。

「そこ、私が卒業したとこだよ!」

「え、そうなんですか?」

「うん! そうかぁ、芽衣ちゃん、私の後輩になるのかぁ」

「……受かったらですけど」

「受かるよ! 絶対大丈夫!」

 そう言って笑う、詩織さんを見つめる。


 そうか。じゃあ詩織さんも、あの高校の制服を着てたんだ。制服を着て、学校帰りに、さくらさんのパン屋さんに寄ってたんだ。音羽くんが小学生だった頃。

「そういえば、音くんも私の後輩なんだよね」

 そこまで言って、詩織さんは意味ありげな表情で私を見る。

「もしかして芽衣ちゃん。音くんに憧れて、同じ高校受けようとしたとか?」

 私の頬が勝手に熱くなる。

 いや、べつに、変な意味はないから。音羽くんの頑張ってる姿に憧れて、私も同じ高校に行きたいって思ったんだ。

 そして私は考える。もしかして音羽くんも詩織さんに憧れて、あの学校を選んだのかな。それはちょっと、考えすぎかな……。


「あれ?」

 坂道の途中で詩織さんが立ち止まる。

「あそこにいるの、音くんじゃない?」

 詩織さんの視線の先を追いかけると、北風の吹く誰もいない公園のベンチに、音羽くんがひとりでぼんやりと座っていた。

「おーとくん!」

 詩織さんに引っ張られて、ふたり一緒に音羽くんの前に立つ。一瞬驚いた顔をした音羽くんは、すぐに顔をしかめて、私たちの顔を見比べた。


「なんでいるの?」

「冷たいなぁ、その言い方。せっかく音くんに会いに来てあげたのに」

「嘘つけ。それになんだよ、その髪型」

「前のほうがよかった? 男ってみんなそう言うよね。長い方がよかったって」

 詩織さんはくすくすと笑っている。

 音羽くんは私たちから顔をそむけ、はあっと深くため息をつく。

 どうしたんだろう、音羽くん。ここで何しているんだろう。いつもだったら、真っ直ぐ家に帰るはずなのに。


「もしかして音羽くん……またさくらさんと喧嘩したの?」

 音羽くんはふてくされた表情でなにも答えようとしない。そんな音羽くんの顔をのぞきこむように、詩織さんが言う。

「え、さくらさんともめてるの? それで拗ねて、いじけて、こんなところにいるんだ? 子どもみたい」

「うるせぇな。ほっとけよ!」

 音羽くんが怒った。けれど詩織さんは全く動じず、やっぱり笑っている。

 さすがだな。六歳上のお姉さんには余裕がある。反対に音羽くんはますますイラついて、本当に子どもみたいだ。


「でもさ、いいんじゃないの? お母さんとは気が済むまでやりあえば。うちはそういうの、なかったからさ」

 詩織さんが視線を遠くに向けてつぶやく。

「母のことはずっと恨んでいたくせに、私はその気持ちをぶつけることができなかった。ぶつけられないまま、亡くなっちゃった。でもさ、言いたいことは言っちゃえばよかったかななんて、今になっては思うんだよね」

 ふっと笑った詩織さんが空を仰ぐ。空はゆっくりとオレンジ色に変わりはじめている。それを見上げる詩織さんの頬も、同じ色に染まっていく。

 私はちらりと音羽くんを見た。うつむいていたはずの音羽くんが顔を上げて、そんな詩織さんの横顔を見ている。

 胸が、きゅっと痛んだ。


「だからさ」

 急に詩織さんが視線を下ろす。音羽くんはさりげなく目をそらしている。

「さくらさんとは、どんどん喧嘩してもいいと思うよ?」

「うるさいな。ほっとけって」

「でもこれだけは、忘れないで」

 詩織さんは音羽くんを無視して続ける。

「さくらさんは誰よりも、音くんを大事にしてるよ?」

 音羽くんは黙っていた。

 ひゅうっと冷たい風が公園の中に吹き込み、詩織さんの短い髪がさらっと揺れた。


「さむっ、早くさくらさんのところに行こう」

 詩織さんが私に笑いかける。

「ほら、音くんも、帰ろう? こんなところにいつまでもいたら、凍え死ぬよ?」

「……あとでいく」

「強情だね。じゃあ芽衣ちゃん、行こ? こんな子、ほっといて」

 詩織さんが歩き出す。私はちらりと音羽くんを見てから、詩織さんのあとを追う。

「あ、そうだ」

 音羽くんに背中を向けたまま、突然詩織さんが立ち止まった。

「言い忘れてたけど……私、海外に行くことになったから」

「海外?」

 思わず口に出した私の声と、音羽くんの声が重なった。


「うん。だからまた当分、さくらさんのパンは食べられないな」

「当分って?」

 顔を上げた音羽くんが聞いた。

「三年か、五年か……それとももっとか……」

「なんで? なにしに行くんだよ?」

 音羽くんが立ち上がる。詩織さんはゆっくりと振り返り、そして音羽くんの顔を見て、静かにつぶやいた。

「実はずっと前から、海外赴任の話をもらっててね」

「海外赴任?」

 詩織さんがうなずく。

「やっと決めたの。自分で一歩、踏み出してみようって」

 詩織さんは私たちの前で、穏やかに微笑んだ。

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