1月30日(水) 晴れ 2
「あら、しおちゃんじゃない!」
「こんにちは。さくらさん。また来ちゃいました」
お店に入った詩織さんは、さくらさんの前でいたずらっぽく笑う。そんなさくらさんと一緒にお店に来たのは、私と……ぶすっとした顔つきの音羽くん。なんだかんだ言って、音羽くんは私たちのあとをついてきた。
「さくらさん、体調はどうですか?」
詩織さんが、少し心配そうにさくらさんに聞く。詩織さんはさくらさんと時々連絡を取っていて、さくらさんが手術をしたことも知っているそうだ。
「ごめんね、心配かけて。このとおり、なんとかやってる」
そう言ってにこっと笑ったさくらさんだけど、すぐに表情を曇らせてつぶやいた。
「でもね……そろそろパン作りは、おしまいにしようと思ってるの。やっぱり身体がついていかなくて」
「無理したらよくないですよ」
「うん。ありがとう」
さくらさんは詩織さんの前で、少し寂しそうに微笑む。
「でもごめんね。しおちゃんがいつでも戻って来られるように、このお店は続けていたかったんだけど」
「いえ……実は私も、しばらく海外で働くことになったんです。父が賛成してくれたので、決心しました」
「え、すごいじゃない」
「はい。本当はもうずっと前から、その話はいただいてたんですけど。なかなか決められなかったんですよね。私、母に……ずっと抑えつけられてたから」
詩織さんが少しうつむく。
「怖かったんです。自分で一歩踏み出すのが」
「しおちゃんは踏み出してるよ。ひとりでちゃんと、東京で暮らしてたじゃない」
「まだまだです。でも私には戻ってくる場所があるってわかったから」
私は自分で言った言葉を思い出す。
『さくらさんはいつだって詩織さんのこと、待っててくれると思うから』
「お店がなくなっても平気です。さくらさんが私のこと、覚えていてくれるなら」
「当たり前じゃない。しおちゃんのこと、絶対忘れたりしないよ? いつでも遊びに来て」
さくらさんが笑って、詩織さんも笑った。
私はすぐ後ろに突っ立っている音羽くんを見た。音羽くんはこっちを見ないように、顔をそむけている。
「じゃあ今日は、私のパンをたくさん持って帰って? 食べ納めかもしれないから」
「寂しいです。このお店のチョココロネを、もう食べられないなんて」
詩織さんの声に、私は思わず口を挟んだ。
「大丈夫です」
さくらさんと詩織さんが私を見る。
「音羽くんがいつかパン屋さんになったら、またチョココロネを作ってくれるから」
「おい」
後ろで音羽くんがぼそっとつぶやく。私はそんな音羽くんに振り返る。
「そうだよね? 音羽くん」
詩織さんが音羽くんを見ている。小さくため息をついた音羽くんが、顔を上げて言った。
「まぁ、そんなに食べたかったら、作ってやってもいいけど?」
詩織さんの顔がほころぶ。
「しお姉ちゃんが戻ってきたとき、また作ってやるよ。この店で。今度はこの前よりも、もっともっとうまいやつ」
「嬉しい。楽しみにしてる」
音羽くんの前で、詩織さんが幸せそうに微笑んだ。音羽くんはちょっと照れくさそうに頭をかくと、くるっと後ろを向いて、店のドアを開けた。
詩織さんとさくらさんは、そんな音羽くんの背中を黙って見ている。
「あ、そうだ」
外へ出ようとした音羽くんが、ふっと振り返って言う。
「俺、べつに、長い方がよかったなんて、思ってないから」
「え?」
「むしろ短い方がいいと思う」
詩織さんがきょとんとした顔で音羽くんを見ている。音羽くんは恥ずかしそうにまた頭をくしゃくしゃかいて、「じゃあな」と言い残し、店から出ていってしまった。
「まったく、あの子は……」
さくらさんが、あきれたようにため息をつく。
「本気でパン屋なんか、できると思ってるのかしら」
「いいじゃないですか。ここを継いでもらえば。音羽くんのパン、すごくおいしいですよ? ご主人のパンにも、さくらさんのパンにも似てるんだけど、でもちょっと違う。音羽くんの味なんです。私はまた音羽くんのパン、食べたいです」
もう一度、さくらさんは息をはく。
「そんなことしおちゃんに言われたら、あの子また調子に乗っちゃうわ」
それから顔を上げ、さくらさんはパンのカゴを差し出す。
「よかったら、好きなの持って帰って。今日はもう閉店にする。芽衣ちゃんもおいで」
ドアのそばで突っ立っていた私は、そろそろとお店の奥に入る。
パンのいい香りを、すうっと吸い込む。
「はい。芽衣ちゃんはクリームパンね」
さくらさんがクリームパンを袋に入れて、私に差し出した。
「ありがとうございます」
「しおちゃんはチョココロネ」
「嬉しい。ありがとう」
詩織さんはチョココロネをもらっている。
「……音羽くんの味ねぇ」
さくらさんはぽつりとその言葉をつぶやいて、ほんの少し口元をゆるませた。
さくらさんとしばらくおしゃべりをしたあと、詩織さんはお店を出ていった。荷物をまとめて、来週にはもう日本を発つのだという。
詩織さんとは、三回しか会っていないけど、幸せになって欲しいなって思った。
「音羽くん、がっかりしてるかなぁ」
去っていく詩織さんの背中を見送りながら、私は思わずつぶやいていた。
「詩織さんが海外に行ったら、また当分、会えないですもんね」
「さぁ……どうかな?」
さくらさんはふふっと笑ったあと、私を見て言った。
「芽衣ちゃんも、そろそろ帰ったほうがいいよ。冬はすぐに暗くなっちゃうからね」
「はい」
「音羽、どこ行っちゃったのかな。送ってもらったら?」
「大丈夫です。クリームパン、ありがとうございました」
私はさくらさんにもらったパンを抱えて、頭を下げる。学校が終わってここに来ても、お店にいられる時間はわずかだ。冬の日暮れはとても早い。
「あの……」
「ん?」
「来週の水曜日も……来ていいですか?」
もしかしたら、さくらさんのお店は、やっていないのかもしれないと心配になる。
「うん。春までは続けようと思ってるから。来れたらおいで」
「はい」
だけど春になったら、もうこのお店に来ても、さくらさんに会えないのかな。それはやっぱり寂しい。
さくらさんと手を振って別れた。外はうっすらと暗くなっている。早足で坂道を歩いていると、公園のベンチに座っている人影に気がついた。
音羽くんだった。
「音羽くん!」
私が駆け寄ると、音羽くんはのっそりと立ち上がった。マフラーをぐるぐる巻いて、制服の上にコートを着て、ポケットに手をつっこんでいる。
「おうちに帰ったんじゃなかったの?」
「芽衣を待ってた」
「え?」
「芽衣を待ってたんだよ」
白い息をはきながら、音羽くんが言う。
「わ、私を? なんで?」
「誤解されてると困るから、言っておくけど」
私の前に音羽くんが立つ。
「俺、べつに悲しくないから」
「は?」
「しお姉ちゃんが海外行っちゃっても、べつに悲しいとかないから」
「う、うん」
なんでそんなこと言うんだろう。ぼんやりしている私を見て、音羽くんはイライラしたように言う。
「だから! 俺が好きなのは、しお姉ちゃんじゃないから! それだけは誤解するなよ?」
そうなんだ。でもそんなに強調して言わなくても……私に誤解されるとそんなに困るのかな。
「わかった」
私はとりあえず、うなずいた。
「うん。わかればいい」
偉そうな態度で音羽くんが言う。へんな音羽くん。意味がわからない。
音羽くんは黙って歩き出すと、公園を出て、坂道を下りはじめた。
「帰るぞ」
「え、でも、音羽くんちはそっちじゃない……」
「いいから、早く」
私が急いで駆け寄ると、音羽くんがポケットから手を差し出した。
「んっ」
私はその手を見下ろしたあと、そっと自分の手を重ねる。音羽くんの手が、冷え切った私の手を包み込む。
「音羽くんの手……あったかい」
「あっためておいたから」
もしかして、私のために?
私の顔を見ないまま、音羽くんがゆっくりと歩き出す。私は音羽くんと手をつないで、家への道を歩く。
冷たい風が吹いて、私の肩にかかる髪が揺れた。私はあいている方の手で、そっと自分の髪に触れる。
『むしろ短い方がいいと思う』
さっきの言葉を思い出す。
音羽くん、短い髪が好きなのかな?
少しうつむいて、指先で自分の髪をいじる。
『俺が好きなのは、しお姉ちゃんじゃないから』
じゃあ、音羽くんの好きなひとって……誰なんだろう。
音羽くんと手をつないで歩きながら、いろんなことを考えた。
やがて暗闇の中に、私の家のあかりが見えてきた。
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