2月6日(水) 曇り 1
高校受験前の最後の水曜日。
今日は友達と塾の特別講習に行く予定だったけど、その前に一目さくらさんに会いたくて、坂道を駆け上った。いつもより少し時間は早く、空はまだ明るく晴れていた。
「いらっしゃいませ……あら、芽衣ちゃん!」
お店に入ると、さくらさんがにこやかに出迎えてくれた。
「あっ、お姉ちゃんだ!」
それと同時に私の足元に小さい子が駆け寄ってくる。
「カンちゃん!」
「お姉ちゃん、見て! ふうちゃん連れてきたよ!」
寛太くんの声に顔を上げると、寛太くんのママが赤ちゃんを抱いて、私ににっこりとお辞儀をした。
「あ、こんにちは」
「こんにちは」
寛太くんのママは、秋に無事、風子ちゃんという女の子を出産していた。
「見てみて! ふうちゃん、かわいいでしょ?」
寛太くんに背中を押されて、ママのそばに行く。ママの胸に抱かれた風子ちゃんは、大きな目をくりくりさせて、こちらを見ている。
「わぁ、大きくなりましたね」
「僕も! 僕も見る!」
毎日見ているはずなのに。ぴょんぴょん飛び上っている寛太くんを抱き上げ、風子ちゃんと同じ目線にしてあげる。
「ふうちゃん! カンちゃんだよー」
風子ちゃんが寛太くんを見て、きょとんとした顔をする。そんなふたりを、ママは優しいまなざしで見つめている。
カランとお店のドアが開く。入ってきたのは学校帰りの音羽くんだった。
「あっ、お兄ちゃんも来た!」
「なんだカンちゃん、来てたのか?」
「お兄ちゃんも見て! ふうちゃん連れてきたんだよ!」
私に抱っこされたまま、寛太くんがおいでおいでをする。そんな寛太くんを見て、ママは苦笑いをしている。寛太くんは妹の風子ちゃんを、溺愛しているのだ。
音羽くんがのそのそと私の隣に来た。そしてちらっと私の顔を見たあと、風子ちゃんの顔を見て、ぼそっとつぶやく。
「なんか……ミルクの匂いがする」
「当たり前でしょ。赤ちゃんなんだから」
さくらさんが横から口を出す。
「抱っこしてみる?」
「え、俺?」
「首も座ったから、大丈夫よ」
寛太くんのママに言われて驚いた顔をした音羽くんは、あわててコートと、制服の上着まで脱いだ。そして「手、洗ってくる」と厨房の奥に入っていき、あっという間に戻ってきた。
「じゃ、じゃあ、抱っこさせてください」
「はい」
ぎこちなく差し出した音羽くんの手に、寛太くんのママがにこにこしながら、風子ちゃんを抱かせた。
「うわぁ……」
音羽くんは何とも言えない声を出す。
「やわらけぇ……」
私も寛太くんと一緒に、音羽くんの腕に抱かれた、風子ちゃんの顔をのぞきこむ。
「かわいい……」
「うん。かわいい」
寛太くんが「僕も抱っこするぅ!」と言いながら、手を伸ばしている。さくらさんと寛太くんのママは、そんな私たちのことを、穏やかに見守っていた。
「え、パンダさんのパン、食べれなくなっちゃうの?」
さくらさんに、パンダのパンを袋に入れてもらった、寛太くんが言った。
「うん。ごめんね。春になったらね、おばさんもうパンを焼くのはやめようと思うの」
「どうして? 僕もっとパンダさんのパン食べたい。ふうちゃんが大きくなったら食べさせてあげるって、約束したんだもん」
寛太くんが泣きだしそうな顔で、さくらさんを見上げる。
「寛太。仕方ないでしょう? わがまま言わないの」
「だってー」
困った顔をしたママが、さくらさんを見て言う。
「でも私も寂しいです。もうこちらのパンが食べられなくなっちゃうなんて」
「ありがとうございます。私も心苦しいのですが……」
さくらさんの声を聞きながら、音羽くんが寛太くんの前にしゃがみ込む。そして寛太くんの顔をじっと見つめて言った。
「カンちゃん、ふうちゃんと約束したんだ?」
「うん、したよ。ふうちゃんが大きくなったら、僕がふうちゃんに、パンダさんのパン買ってあげるんだ。だって僕、ママにもらったお金、持ってるもん」
「そっか……」
音羽くんは何かを考えるように黙り込んでから、寛太くんの頭をくしゃくしゃとなでて、立ち上がった。
「さくらさん」
音羽くんが言う。
「俺の考えは変わらないから」
さくらさんは黙って音羽くんの顔を見る。
「さくらさんが反対しても、俺、絶対パン屋になるから」
「え、お兄ちゃん、パン屋さんになるの?」
寛太くんが音羽くんを見上げる。
「うん。すぐにはなれないけど、もっとたくさん勉強して、おいしいパンが作れるようになったら、絶対カンちゃんとふうちゃんにパンダさんのパン作るから」
「やったー!」
寛太くんが嬉しそうに飛び跳ねる。
「僕、買いにくるよ! 僕のお金で、ふうちゃんに買ってあげるんだ」
音羽くんが笑って、寛太くんの頭をもう一度なでる。
「よかったわね、カンちゃん」
寛太くんのママも嬉しそうだ。
私はちらりとさくらさんを見る。さくらさんは何も言わないで、ただ音羽くんのことを見つめていた。
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