2月6日(水) 曇り 2

「最近ね、まだ暗いうちから起きて、学校行く前にパンを焼いてるのよ」

 寛太くんたちが帰ると、音羽くんも二階へ上がってしまった。

 私はふたりきりになったお店で、さくらさんの話を聞く。

「本気でパン屋になるつもりなのかな……あの子」

 さくらさんはそう言って、ため息をつく。

「生まれたときは、さっきのふうちゃんみたいに、私の腕の中にいたのにね。いつの間にかあんなに大きくなっちゃって、生意気なことを言う。ほんと、親の気も知らないで」

 そこまで言うと、さくらさんは私に笑いかける。

「ごめんね、芽衣ちゃんに、こんなこと」

「いえ」

 そしてさくらさんは小さく息をはいて、顔を上げた。

「仕方ないのかなぁ……音羽はもう、私の腕の中にはいないんだから」

 私は前にお母さんが言っていた言葉を思い出す。

『そうなったら仕方ないかな……親は黙って見守るしかないわよね』

 さくらさんも、私のお母さんと同じ気持ちなのかな。


「さくらさん……」

「うん?」

 さくらさんがゆっくりと私を見る。

「私……さくらさんに出会えてよかったです」

「やだ、どうしたの? 急に」

 さくらさんがくすくすと笑っている。

「さくらさんのパン屋さんに来れてよかった」

 ここで、いろんなことを教えてもらった。

 今まであんまり考えたことのなかった、親の気持ちも考えるようになった。

 寛太くんのママが、寛太くんや風子ちゃんを大事に思っているように、さくらさんが、音羽くんを大事に思っているように……きっと私のお母さんも、私のことを大事に思ってくれている。

 淡々と過ぎる毎日の中では、気づかなかったけれど。


「私、今度の水曜日は、受験の日なんです」

「そう。いよいよ来週か」

「結果がわかったら、また報告に来ます」

「うん。待ってる」

「それから今日は、クリームパン、三つください。これから塾行くんで、友達と一緒に食べたいんです」

 さくらさんがにっこり笑って、カゴに入ったクリームパンを、三つ袋に入れてくれた。

「三百九十円になります」

 お財布の中からお金を取り出す。お母さんからもらったおこづかいだ。

『だって僕、ママにもらったお金、持ってるもん』

 寛太くんの言葉を思い出し、私もまだまだ寛太くんと一緒だなと思う。


 お金を渡すと、さくらさんは「ありがとうございます」と言いながら、私にパンの袋を差し出した。それから厨房に行ってもうひとつ袋を持って出てくる。

「よかったらこのおまけももらってくれる? ちょっと失敗作だからお店には出せないんだ」

「いいんですか?」

「いいのいいの。よかったら食べて」

 さくらさんはそう言うと、にっこり私に微笑みかけた。


「気をつけて帰ってね」

 店の外まで出てきてくれたさくらさんが言う。

「はい」

 パンの袋を大事に抱えて私はうなずく。

 外はうっすらと暗くなっていた。これから塾で勉強して、休憩時間に三人で、クリームパンを食べよう。みんなも「おいしい」って言ってくれると嬉しいな。

 坂道を少しくだり、振り返る。

 花の咲いていない桜の木の下。ぼんやりと灯りの灯った小さなお店。その前に立ったさくらさんが、私に手を振る。

『が・ん・ば・れ』

 さくらさんの口元がそう動く。

 私は笑顔でうなずいて、高く大きく手を振り返した。



「おいしい! このパン!」

 塾の休憩時間。ふたりの友達にクリームパンをあげた。

「ほんと! どこで買ったの?」

 私はふたりの前で微笑む。

「水曜日のパン屋さん」

「え?」

「坂道の上にある、水曜日だけやってる、やさしいお店なんだ」

「へぇー。私も行ってみたい」

「うん。他のパンも食べてみたいよね」

 ふたりは嬉しそうにそう言ってくれたけど……春になったら、さくらさんのお店はなくなってしまう。

「そうだね……行けたらいいね」

 そうつぶやいて、私はバッグの中を見る。そう言えばもう一袋、さくらさんにもらったものがあった。私は袋を取り出して、中を見てみる。


「クリームパンだ」

 さっきふたりにあげたのとは、ちょっと焼き色が違うけど、どこが失敗作なんだろう。

 袋から取り出して、一口食べてみる。甘くてやさしい味が口の中に広がる。

「あれ……これは……」

 もう一口食べて、私は気づいた。

 これ、失敗作なんかじゃない。これは、音羽くんが作ったパンだ。

『最近ね、まだ暗いうちから起きて、学校行く前にパンを焼いてるのよ』

 そういえば、そんなことを言っていた。

 さくらさんはさりげなく、私に音羽くんのパンを渡してくれたんだ。


「芽衣? どうしたの?」

 気づくと私は、パンを食べながら涙をこぼしていた。はじめてさくらさんのパンを食べたときと同じように。

「あれ……私、泣いてる?」

「泣いてるじゃん。大丈夫?」

 心配そうに私を見ているふたりに、私はつぶやく。

「パンが……おいしくて」

「えー?」

「パンがおいしくて泣いてんの?」

 ふたりがくすくす笑い出す。私も笑いながら、そっと涙をぬぐう。


「パン食べて泣くひとって、あんまりいないよね?」

「よっぽど好きなんだね。芽衣、そのパン」

 友達の声に、私は答える。

「うん。すごく、好きなんだ」

 みんなで笑いながら、パンを食べた。

 音羽くんのパンは甘くてやわらかくて、受験でピリピリしていた私の心を、ふんわりと包み込んでくれるような気がした。

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