2月13日(水) 晴れ

 夜中に降った冷たい雨は、朝にはすっかりやんでいた。窓を開けて、息を吸い込む。家の前の濡れた路面に朝日が反射して、キラキラひかっている。

「芽衣ー! 起きてるー?」

「うん。起きてる」

 お母さんの声に返事をして、私は開いていた窓を閉めた。


「受験票持った? お弁当も持ったわね?」

 玄関でお母さんがそわそわしている。今日は高校受験の日だ。

「時間は余裕あるから。ゆっくり行きなさい。走って転んだりしたら大変だから」

「わかってる」

 靴を履いた私は、制服を着た肩にスクールバッグを掛け、「いってきます」とお母さんに言う。

「いってらっしゃい」

 お母さんが小さく微笑んで、私に向かって手を振った。


 外に一歩出た途端、冷たい風が頬に当たった。一瞬目を閉じたあと、いつものように門を出る。

 いつも通りやればいい。担任の先生も、塾の先生もそう言っていた。だけどやっぱりドキドキする。もし、いつも通りできなかったら……私はあの高校へ行けない。滑り止めに受けた私立は受かっているけど、それじゃあ意味がないんだ。


「芽衣」

 突然名前を呼ばれてハッとする。うつむいていた顔を上げると、目の前に私服姿の音羽くんがいた。ああ、そうか。今日高校生はお休みなんだ。でもどうしてここに、音羽くんが?

「お前、大丈夫?」

「え?」

「なんかぼーっとしてるから」

 そうだ。ぼうっとしてる場合じゃない。しっかりしなきゃ。

「だ、大丈夫だよ?」

 そう答えた声が不自然に震えていた。音羽くんが私の前で顔をしかめる。

「心配だなぁ……」

「お、音羽くんは、なんでここにいるの?」

「え、俺? 俺は、まぁ……お前の見送りに? 今まで勉強教えてきた先輩として」

「でもこんなに朝早くから……」

「俺は早起きなんだよ」

 ああ、そうか。朝早くからパンを焼いてるってさくらさんが言ってた。あれは本当だったんだ。


 音羽くんは寒そうに鼻をすすったあと、ちらりと私の顔を見た。

「……緊張してる?」

「うん。してる」

 私が素直に答えたら、音羽くんは周りを見回したあと、ポケットから手を出した。そしてすっとその手を伸ばし、私の背中に触れた。

「え……」

 音羽くんのあたたかい手が、私の背中を抱き寄せる。私はぎゅうっと音羽くんの胸に顔を押し付けられた。


「……大丈夫だよ」

 耳元で聞こえる、かすかな声。

「大丈夫。芽衣はいつも頑張ってるから」

 音羽くんの服からは、パンのいい匂いがした。さくらさんのお店にいるみたいで、なんだかすごく落ち着く。

「俺はお前のそういうところが……好きなんだ」

 え――

 身体が固まる。

 今、音羽くん、なんて言った? もしかして、『好き』って言った?

 かあっと顔が熱くなる。音羽くんはそっと身体を離す。恐る恐る顔を上げると、音羽くんもほんのりと頬を赤く染めていた。


「……緊張とけた?」

 私はふるふると首を横に振る。

「余計緊張した」

 音羽くんがふっと口元をゆるませる。

「もう行かないと」

「うん」

「道わかるな?」

「うん」

「合格したら……」

「うん?」

「俺たち、つきあわない?」

 ぼうっとしたまま、音羽くんを見る。音羽くんはあわてて言い直す。


「あ、いや、合格しなくても……じゃなくて、絶対合格するけど……とにかく受験が終わったら、俺とつきあわない?」

 どうしてこんな日に、そんなこと言うんだろう。今まで必死に覚えた頭の中の公式も単語も、全部どこかに吹っ飛んでしまった。

「……のバカ」

「は?」

「音羽くんのバカ。こんな日に、どうしてそんなこと言うの? テストに集中できないよ」

「……ごめん」

「でも」

 私は顔を上げて、笑顔を見せる。

「すごく、うれしい」

 音羽くんの顔が、ふわっと明るくなった。


「芽衣ー? 誰としゃべってるの? まだそんなところにいるの?」

 玄関のほうからお母さんの声がする。

「やべっ、早く行け!」

「う、うん!」

 音羽くんが私の背中を押す。

「がんばれよ!」

 振り返って音羽くんにうなずく。それから前を向いて、濡れた路面に一歩踏み出す。

 もう後ろは振り返らなかった。ただ前だけを見つめて、一歩ずつ歩いた。

 だけどきっと、音羽くんは見てくれている。私が前に進んで行くのを、きっと見送ってくれている。

 マフラーを首に巻き直し、歩きながら空を見上げた。

 洗いたての空はどこまでも青く、私は澄んだ空気を、思いきり胸の奥に吸い込んだ。

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