1月23日(水) 晴れ 2
「音羽。あんたってほんとずるいよね」
あたたかい店内に戻ると、さくらさんがあきれたように口を尖らせた。
「おじいちゃんの前であんなふうに言われたら、私も反対できないじゃない」
「じゃあ反対しなきゃいいじゃん」
音羽くんがぶすっとした態度で答える。
私はハラハラしながら、ふたりの顔を見比べていた。
「だいたいさくらさんだって、父さんと同じことしたくてやってるじゃん。なんで俺がやったらダメなんだよ?」
「私がやってることと、あんたがやろうとしてることは、全然違うでしょ?」
「違わない」
「違います」
「あのっ……」
耐え切れなくなって、私は間に入った。
「あの……喧嘩しないで……ください」
音羽くんは怒った顔で私を見ると、機嫌悪そうに奥のドアから出ていってしまった。私は小さくため息をつく。
「ごめんね、芽衣ちゃん」
そんな私にさくらさんが言う。
「私たちの親子喧嘩に、芽衣ちゃんまで巻きこんじゃって」
「いえ……」
さくらさんは私に笑いかけたあと、少しふらふらしながら、そばの椅子に腰かけてしまった。
「さくらさん、大丈夫ですか?」
私はさくらさんのもとへ駆け寄る。
「大丈夫、大丈夫。手術してからね、全然体力なくなっちゃって。少し立ってると、すぐ疲れちゃう」
さくらさんがそう言って、力なく笑う。
「そろそろ……限界なのかもねぇ」
「限界?」
私の顔を見て、さくらさんはまた微笑む。
「私のパンを買いに来てくれるのは、もちろん嬉しいけど。それよりもこの場所が誰かの心の拠り所になっていれば、すごく嬉しいなって思って……だからずっと続けたかったんだけど」
心の拠り所……私は心の中でつぶやく。
「市郎おじいちゃんも、しおちゃんも。このお店があるだけで、救われるって言ってくれるから」
「私もです」
さくらさんに言う。
「私も、このお店があったから……さくらさんに会えたから……だから学校にも行けたし、高校にも行こうって思えたんです」
さくらさんは私を見て、嬉しそうに微笑んでくれた。
「ありがとう。そう言ってくれると、私も嬉しい」
そしてパンの並んだ店内を見回して、ひとり言のようにつぶやく。
「でも、救われてたのは……実は私のほうかもしれないね」
さくらさんは私に、亡くなったご主人のことを、すごく好きだったと話してくれた。
苦労したことも、喧嘩したこともあったけど、それでもすごく好きだったと。
だから突然ご主人を亡くして、生きる気力を失ってしまった。
自分も後を追って、死にたいとさえ思ってしまった。
「そんなときにね、音羽が私をこの店に連れてきて。主人が作ったのと同じ味のクリームパン、作ってくれたの。私が好きだったのから」
さくらさんはふふっと口元をゆるませる。
「パンを食べながら泣いたのは、それがはじめてだったなぁ……」
前に音羽くんが言っていた。さくらさんのこと、本当は弱いひとだって。だから自分が頑張らなきゃダメだって……それで高校も受験しようって思ったって。
「だからこのお店は……辞めたくないけど。身体を壊したら、たった一人の家族に迷惑かけるから」
さくらさんも同じように、音羽くんのことを思ってる。だったら……。
「だったらこのお店で、音羽くんがパン屋さんを開いたら……」
「それとこれとは話が別。あの子には無理だよ」
「でも……」
「それにあの子には、これ以上苦労して欲しくないの」
さくらさんの気持ちも、音羽くんの気持ちもわかるのに……私にはどうすることもできない。
暗くなった夜道をひとりで帰った。さくらさんは「音羽に送らせるよ」と言ってくれたけど、「今日はひとりで大丈夫です」と言って店を出た。
坂道を下りきったところで、お母さんに会った。暗くなってきたから、私のことを心配して、迎えに来てくれたそうだ。
「ねえ、お母さん?」
家への道を歩きながら、お母さんに聞いてみる。
「お母さんは私に、苦労して欲しくないって思ってる?」
隣を歩くお母さんは不思議そうに私を見て、それからふふっと笑う。
「親だったらみんな、そう思ってるに決まってるじゃない?」
「じゃあ苦労するってわかってること、私がどうしてもやりたいって言ったら?」
「子どもにそんなことさせたくないわよ。誰だって」
お母さんはそう言って私を見てから、前を向く。
「でも、芽衣は……止めてもやるんじゃないかな?」
「え?」
私はお母さんの横顔を見た。お母さんはまた少し笑う。
「だって芽衣は意外と頑固だし、一度決めたことは絶対最後までやり遂げようとするでしょう?」
そうかな……自分ではよくわからないけど。
「だからきっと、お母さんが止めても、芽衣はやるわよ。そうなったら仕方ないかな……親は黙って見守るしかないわよね」
私はお母さんの言葉を、大事に胸に受け止めた。
お母さんは今までも、これからも、私のことを見守ってくれている。
「お母さん!」
私は隣にいるお母さんの腕を、両手でぎゅうっと抱きしめた。
「やあねぇ、どうしたの? 子どもみたい」
「子どもだもん」
お母さんがくすくすと笑っている。私はお母さんにしがみつくようにして歩く。
こんなふうにお母さんにくっついて歩くのは、何年振りだろう。子どもの頃は、お母さんと離れたくなくて、ずうっとしがみついていたのに。
いつか私も音羽くんみたいに、お母さんと意見が合わなくなる時が来るかもしれないけど……今夜のことはずっと忘れないでいようと、なんとなく心の中で思った。
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