1月23日(水) 晴れ 1

「あっ」

 凍えるような寒い夕暮れ、坂道を駆け上ろうとしていた私は、ばったり学校帰りの音羽くんと会った。

「よう」

 音羽くんは首にマフラーをぐるぐる巻き、ポケットに手を突っ込んで、背中を丸めて歩いていた。

「なに急いでんの? お前」

 息を切らしていた私に、音羽くんが言う。

 また言われてしまった。

 でも学校に行くようになった私には、時間がない。家に帰ってから、さくらさんのお店のパンが売切れて閉店するまで、わずかな時間しかないのだ。しかも週に一回、水曜日だけ。この時間は私にとって大事な時間だから――


「そんなに腹減ってんの?」

「ちがっ……」

 パンが食べたいわけじゃない。いや、食べたいけど。それだけじゃないんだ。

 音羽くんが私をからかうように笑う。そしてゆっくりと坂道をのぼり始める。私もその少しあとをついていく。

 北風がひゅうっと吹いて、制服のスカートを揺らした。私はマフラーを押し上げて、音羽くんの背中を見つめる。

 紺色のブレザーにグレーのズボン。もう見慣れた音羽くんの制服。春になったら私も同じ制服を着たい。同じ制服を着て、同じ学校に行きたい。

 私は想像する。桜の花びらが舞い散る中を、音羽くんと並んで歩く自分の姿を。


「おいっ」

 はっと気づいて立ち止まる。いつの間にか音羽くんからだいぶ遅れてしまっていた。

「早く歩けよ。腹減ってんだろ?」

「ち、違うもん」

 少し先で立っている音羽くんに駆け寄る。すると音羽くんがポケットから手を出して、私の前に差し出した。

「ん」

「え?」

「手!」

「あ、はい」

 差し出された手のひらに、自分の手をのせると、音羽くんが驚いたように言った。


「うわ、お前の手、つめてー!」

「だって、急いでたから手袋忘れちゃって……」

 音羽くんはそんな私の手をぎゅっと握りしめる。

「どんだけ腹減ってんだよ、お前」

「だから違うって!」

 私を見た音羽くんがおかしそうに笑って、握った手を引っ張るようにして歩き出す。

「行くぞ」

「……うん」

 冷たい風の吹く坂道を、音羽くんと手をつないで歩いた。

 ポケットの中で温められていた音羽くんの手は、すごくあたたかくて、私はこの手をずっと離したくないって思ってしまった。

 

「音くん。久しぶりだなぁ」

 お店のドアを開けると、思いがけないお客さんがいた。

「市郎じいちゃん!」

「これはこれは、お嬢さんもご一緒で」

 私と音羽くんは、はっと気づいて、あわてて手を離す。

「仲がいいのよ、このふたり」

 さくらさんがお店の奥から笑顔を向けてくる。

「ほう。仲がいいのは良いことだ。わしとばあさんも、若い頃は……」

「そんなことよりじいちゃん! 体調は?」

「いやぁ、このとおりピンピンしておるわ。心配かけてすまなかった」

 市郎おじいちゃんがにこにこしながら言う。音羽くんは私の隣で小さく息をはいた。音羽くんは、おじいちゃんのことを、実はすごく心配していたんだ。口には出さないけど。


「今日は娘がこっちに買い物があるというもんで、久しぶりにさくらさんのあんぱんを買いに来たんだよ」

「おじいちゃんね、娘さんやお孫さんの分も、買ってくださったのよ」

 おじいちゃんは私たちに、持っている紙袋を見せたあと言った。

「ふたりとも、学校帰りかね?」

 私と音羽くんの制服姿を、おじいちゃんは目を細めるようにして見る。

「ああ、まぁ、そんな感じです」

「まぁ、のんびり行きなさい。まだまだ人生先は長い」

 おじいちゃんはそう言って笑ったあと、どこか遠くを見るような視線でつぶやいた。

「わしの人生は、もう残りわずかだがね」

「そんなことっ……」

 つい声を出してしまった。

「おじいちゃんにはもっともっと、長生きして欲しいです」

 おじいちゃんは私を見て、穏やかに微笑んでくれた。

「ありがとう。お嬢さん」


 店の外で車のクラクションが鳴った。

「娘さん、戻って来られたようですね」

「そうだな。ではそろそろ失礼しますか」

「お気をつけて」

「さくらさんも、身体を大事にな」

 おじいちゃんはさくらさんの背中にそっと手を当てる。さくらさんは静かに目を閉じたあと、「ありがとうございます」と微笑んだ。


 さくらさんと一緒に、お店を出ていくおじいちゃん。私もそのあとを追いかけようとして、ふと後ろを振り向いた。

「音羽くん?」

 音羽くんは何かを考え込むかのように、うつむいている。

「音羽くん、おじいちゃん行っちゃうよ? いいの?」

「……よくない」

 小さくつぶやいた音羽くんが、私を追い越して、外へ飛び出した。冷たい風がびゅっとお店の中に吹き込んでくる。

「市郎じいちゃん!」

 音羽くんが大声で呼んだ。車に乗り込もうとしていたおじいちゃんが、動きを止めてこちらを見る。


「じいちゃん! 俺……」

 私はドアの陰から音羽くんの背中を見つめる。

「俺……パン屋になりたいんだ」

「音羽……」

 さくらさんの戸惑うような声が漏れる。おじいちゃんはじっと音羽くんのことを見つめている。

「母さんより、父さんより、おいしいあんぱん作るから……俺が作るから。だからそれ食べるまで、長生きしてよ。死なないでよ。お願いだから……」

 音羽くんの声がかすれて小さくなる。おじいちゃんはしばらく音羽くんを見つめたあと、ふわっと表情を緩めてこう言った。


「わかった。わしは死なん。音くんのあんぱんを食べるまで、わしは死なんよ」

 おじいちゃんの声が、冷たい空気の中に、きんっと響く。うつむいた音羽くんが顔を上げて、おじいちゃんを見る。

「だからお前も強くなれ。わしみたいにな」

 音羽くんがさりげなく目元をこする。おじいちゃんは声を上げて笑って、そして車の中に乗り込む。

「じゃあ、また来るよ」

「お待ちしてます」

 車の窓から手を振るおじいちゃんに、さくらさんが手を振り返した。私もお店の外へ出て、走り出す車に手を振った。

 だけど音羽くんは立ちつくしたまま、ただ真っ直ぐ、おじいちゃんの乗った車を見送っていた。

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