1月16日(水) 雨 2
「芽衣ちゃん! いらっしゃい!」
放課後、一度家に帰ってから、さくらさんのお店に行く。しばらく仕事もパン作りも休んでいたさくらさんだけど、またその両方を再開した。
病院へは、まだ通っているようだけど。
「また体壊したら、元も子のないからね。パン作りのほうは、ほどほどにやらせてもらってる」
そうは言っても、お店が再開されると、お客さんは喜んで、さくらさんのパンを買いに来てくれた。
「私の気まぐれで開かせてもらってるお店なのに……なんか申し訳ないなぁ」
さくらさんはそう言って笑うけど、みんな心から、さくらさんの復活を喜んでくれているんだと思う。
「どう? 受験勉強、頑張ってる?」
「はい。なんとか……」
苦笑いしながら、レジの向こうをちらりと見る。
音羽くんは私を無視するかのように、漫画雑誌をぱらぱらとめくっている。
「あの……音羽くん?」
実は今日、勉強道具を持ってきた。音羽くんに教えてもらいたい問題があったから。
「音羽くん」
「なんだよ?」
音羽くんは機嫌が悪そうだった。今日はとても勉強教えてなんて言えない。
「やっぱり、なんでもない」
「なんだよ。言えよ?」
「なんでもない」
むすっとした顔で、私を見ている音羽くん。
「なんで制服着てんの?」
私は、はっと気がつく。そう言えば着替えもせずに家を出てきてしまった。
「い、急いでたから」
「なにを急いでたんだよ?」
音羽くんに、早く会いたかったから。なんて、そんなこと、言えるわけない。
「なんでもないの!」
トートバッグをぎゅっと抱きしめる。音羽くんはそんな私をじっと見つめると、立ち上がって言った。
「勉強教えてほしいなら、上来いよ。教えてやるから」
音羽くんは漫画雑誌を持って、裏口に向かうと、ドアを乱暴に閉めて行ってしまった。
「ごめんね?」
ぼんやりと突っ立っている私に、さくらさんがささやく。
「ちょっとさっき、私とやり合っちゃってね。進路のことで」
「進路のこと?」
さくらさんが困ったように微笑む。
「高校卒業したらパン屋に就職するって言い出して……あの子が父親に憧れてたのは知ってたけど、まさか本気で考えてるとは思わなかった」
やっぱり……音羽くんは本気だったんだ。
「でも私はね、音羽には大学出て、安定した仕事に就いてもらいたいと思ってるの。パン屋さんは確かにいい仕事よ。お客様に『おいしい』『また作って』なんて言ってもらえたら、すごく幸せでやりがいもある。だけど私は主人が苦労したことも知ってる。正直私も苦労させられた。だから音羽にはそうなって欲しくないの」
さくらさんはふうっとため息をつくと、私に「ごめんね」ともう一度言った。
「芽衣ちゃんのパン屋さんに対するイメージも壊しちゃったかな。でも憧れだけじゃやっていけない。きついわりに儲からないし、忍耐強い人じゃなきゃ続けられない。あの子はまだわかってないのよ」
そうなのかな……私も、音羽くんも、まだ子どもで、夢を思い描いているだけなのかな。
「でも私は……」
小さな声でつぶやく。
「音羽くんだったら、お父さんみたいなパン屋さんになれると、思ってます」
私の声に、さくらさんが微笑む。
夢みたいなこと言ってるなって、思われているのかもしれない。
さくらさんに「二階で勉強してきたら?」と言われて、音羽くんのところへ向かった。そのとき「よかったら食べてね」とウインナーパンを二個もたせてくれた。音羽くんの好きなパンだ。
二階へ行くと、音羽くんがふてくされた様子でテレビを観ていた。
「音羽くん……」
音羽くんはちらりと私を見ると、リモコンでテレビを消した。そして手招きをして私を呼ぶと、ぶすっとした態度で聞いてきた。
「さくらさん、なんか言ってただろ?」
気になるんだ。やっぱり、さくらさんのこと。
「うん。まぁ」
「大学行けって?」
「うん。大学出て安定した仕事に就いてもらいたいって」
音羽くんは、わざとらしいほど大きなため息をついた。
「わかってねぇな。あのひとは」
私はテーブルをはさんだ向かい側に腰をおろす。
「さくらさんは……音羽くんのことを想って、そう言ってるんだよ」
「俺のことを想って? だったら俺の好きなようにさせてくれりゃいいじゃん」
「そうだけど……」
音羽くんはイライラした様子で私の顔を見る。
「芽衣は、どっちの味方なんだよ?」
私は黙り込んだ。
そんなこと言われても困ってしまう。音羽くんの気持ちもわかるし、さくらさんの気持ちも、なんとなくはわかる。
困っている私の前で、音羽くんが言う。
「父さんの友達だったひとがさ、隣町でパン屋やってるんだ。小さい頃から何度も連れて行ってもらってて、いまでも時々通ってる。さくらさんは知らなかったけど」
「え……」
「そのひと、俺がパン屋になりたいって言ったら、『うちに修行に来い』って誘ってくれてさ」
そんなひとがいたんだ。
「俺、すごくありがたいって思ってて。そのひとの作るパン、すごく好きだし。まずはそこでいろいろ勉強したいと思った。他にもいろんなパンを食べたいし、作りたい。世界中で修業してみたい」
「それ、さくらさんに話したの?」
「うん」
「それでも反対なの?」
「甘いって言われた」
音羽くんが息をはく。
「あんたみたいなメンタル弱い子が、この世界で通用するはずないって。確かに俺は情けないけど、でもこれだけは絶対やり遂げたい。父さんみたいに……いや、それ以上になりたい」
私はぼんやりと音羽くんのことを見ていた。それに気づいた音羽くんは、急にあわてたように頭をかく。
「あ、俺、なんかウザかった?」
「そんなことない」
私は首を横に振る。
「いいなぁ。音羽くんには目標があって」
「芽衣にもあるじゃん」
音羽くんが私の顔をのぞきこむようにして言う。
「俺の学校、来るんだろ?」
ああ、そうだった。私の目標は、音羽くんと同じ高校に入学すること。
「大丈夫なのかよ、お前。受験まであと一か月だろ?」
「た、たぶん」
「たぶんじゃねーよ。教えてもらいたいとこ、どこ?」
「あ、えっと……」
バッグから問題集を取り出そうとして、手を止めた。
「そのまえに……これ食べない?」
さくらさんのくれたウインナーパンを差し出すと、音羽くんは一回顔をしかめてから、「いただきます」と言ってそれを手にとった。
ふたりでパンを食べたら、なんだかほっこりしてしまった。だけどそれは一瞬で、すぐに音羽くんの特訓が始まった。
「は? お前そんな問題も解けないの?」
「だから違うって言ったじゃん。そういう場合はそうじゃなくて……」
「お前、ほんとに大丈夫かよ? なんか心配になってきた」
勉強を教えながら、音羽くんは頭を抱えているけれど、私はなんだか嬉しかった。
「なに笑ってんの? お前」
「ううん。なんでもない」
だって、いつのまにか音羽くんが、いつもの音羽くんに戻っていたから。
窓の外はすっかり暗くなっていた。冷たい雨が降り続いている。だけど部屋の中はぽかぽかとあたたかくて、さくらさんの作るパンのようだと、なんとなく思った。
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