4月18日(水) 雨のち曇り 2
カランとドアのベルが鳴った。
「いらっしゃいませぇ」
音羽くんのちょっとやる気のなさそうな声。
「あら、音くんがいた。今日はラッキーね」
中に入ってきたおばさんが、にこにことうれしそうな顔をする。
「さっき学校から帰ってきたところなんです」
「まぁ。この時間に来て正解だったわ。今日はいつもよりいっぱい買っちゃおうかな」
「ありがとうございます」
顔を上げた音羽くんが、ちらっと私を見た。一瞬目が合って、私はあわてて目をそらす。
「さくらさん。クロワッサン焼けてるかしら?」
「ちょうどいま、焼けたところですよ。持ってきますね」
さくらさんが厨房へ入っていく。
カランとベルが鳴って、またひとりお客さんが入ってきた。白髪のおじいさんだ。
「いらっしゃいませ」
「おっ、どこの色男かと思ったら、音くんじゃあないか」
「どうも」
「女にモテそうな顔しおって。まるで若い頃のわしのようだわ」
おじいさんが音羽くんをひやかして笑っている。するとクロワッサンを運んできたさくらさんが、割り込んで言った。
「おじいちゃん。この子がモテるわけないじゃない。無愛想だし、口が悪いしさ」
「男はそれでいいんだ。わしも若い頃はそうだった」
おじいさんがまた、わははっと明るく笑う。さっきのおばさんも一緒になって、くすくす笑っている。だけど音羽くんはにこりともせず、カウンターの向こうから出てくる。
「市郎じいちゃん。いつものあんぱんでいい?」
「ああ、ばあさんの分とふたつ頼むよ」
「毎度」
私はトレーを両手で持ったまま、突っ立っていた。音羽くんが私の横にやってくる。
「邪魔」
「あっ、すみません」
私が避けると、音羽くんはあんぱんを二個トングで取った。さくらさんは最初に来たおばさんとしゃべりながら、クロワッサンを袋に入れている。
意外と繁盛してるのかな、このお店。意外とっていうのは失礼だけど。だって普通のひとは、気づかず通り過ぎてしまうようなお店だから。
「お嬢さん、このあんぱん食べたことがあるかい?」
突然おじいさんが私に聞いた。
「い、いえ」
「とってもおいしいんだよ。餡がぎっしりつまっててな。それでいてしつこくない。うちのばあさんの大好物なんだ」
おじいさんはにこにこしながらそう言うと、レジに行って、音羽くんからパンを受け取った。
「ありがとうございました」
パンをうれしそうに抱えて、おばさんとおじいさんが店を出ていく。さくらさんと音羽くんと一緒に、私もその背中を見送る。
「ああ、ごめんね、芽衣ちゃん。どれ食べるか決まった?」
私のトレーの上にはまだクリームパンしかのっていない。
「あ、えっと……」
「ったく、グズなやつだな」
音羽くんがまた出てきて、私のトレーにパンを次々とのせていく。
「あ……こんなにたくさん……」
「いいんだろ、さくらさん。サービスで」
「うん、いいよー。いくらでも持って帰って」
「だってさ」
私は音羽くんの顔を見る。こんなに近くで男の子の顔を見るなんて久しぶりだ。よく見ると、さっきのおじいさんが言っていたように、女の子にモテそうな顔をしている。
「貸してみな」
音羽くんは私の手からトレーを奪うと、レジのところへ行って、ささっと袋に入れた。さすがパン屋さんの息子さん。手慣れている。
「はい。タダでいいよ」
「でもこんなに……」
すると奥からさくらさんの声が聞こえてくる。
「いいの、いいの、持ってきな。私たち、かわいい女の子には弱いんだよ。ね、音羽?」
「は? 俺そんなこと、ひとことも言ってねぇし」
音羽くんは私にパンの袋を押し付けると、手で「しっ、しっ」と払った。
「それ持って、さっさと帰れ」
「音羽ー! あんたお客さんになんてこと言うの!」
「こいつのどこがお客だよ」
ふたりが言い合いをはじめてしまったので、私はあわてて口を開いた。
「あのっ、ありがとうございました! 次こそはちゃんとお金払いますから!」
「ううん、芽衣ちゃんが来てくれただけでうれしかった。また来れたら、おいで。来週の水曜日に」
さくらさんはただ「おいで」とは言わない。「来れたら、おいで」と言う。
「はい」
私はさくらさんの前でお辞儀をした。顔を上げると不機嫌そうに私を見ている音羽くんと目が合って、私は逃げるようにお店を出た。
家に帰ると、お湯を沸かして紅茶をいれた。この前さくらさんがしてくれたように。そしてもらったパンをテーブルに並べる。
あんぱん。クリームパン。カレーパン。それからウインナーパンに、クロワッサン。
どれもおいしそうで、どれから食べたらいいのか迷ってしまう。
『とってもおいしいんだよ。うちのばあさんの大好物なんだ』
私はさっきのおじいさんの言葉を思い出し、あんぱんを手にとった。
甘いものは私も大好きだ。最近あまり食欲がなくて、お菓子もほとんど食べていなかったけど。そういえば学校を休みはじめてから、ずいぶん体重が減ってしまった。
「いただきます」
誰もいない部屋で、ひとりであんぱんを食べた。おじいさんの言ったとおり、しつこくもなく、あっさりしすぎでもなく、ほっとするような甘さ。
ひとくち食べて、私は深く息をはいた。
窓の外は曇り空。それを見ながら私は思う。
来週の水曜日も、雨が降ったらいいのにな、と。
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