7月25日(水) 大雨 1
その日は朝から落ち着かなかった。何度も時計と窓の外を見ては、部屋の中をぐるぐると回っていた。
『来週の水曜日。迎えに来る』
今日はその水曜日。音羽くんが『しいて言えばデートってやつ』と言った日だ。
だけど……。
さくらさんはどうしただろうか。もう入院したのだろうか。手術はいつ? 病状は?
音羽くんは、ひとりでどうしているの?
心配で、聞きたいことがたくさんあったけど、私はさくらさんの連絡先も、音羽くんの連絡先も、知らない。
そして心の隅で思っていた。音羽くんは来ないかもしれない。きっとデートどころじゃないはずだ。
窓の外は雨がしとしとと降っていた。生ぬるい夏の雨。窓を開けると、ひどい湿気と共に、蒸し暑い風が流れ込んできた。そしてそんな雨の中、こちらへ向かって歩いてくる、透明なビニール傘が見えた。
私はドアを開け、急いで階段を駆け下りる。
「音羽くんっ!」
玄関から飛び出したら、音羽くんが驚いた顔をした。でもすぐにあきれたように小さく笑って「おはよ」と私に傘をさしかけた。
「お、おはよう」
「なにあわててんだよ?」
音羽くんがくくっと笑う。私はその顔をじっと見つめる。
「なに?」
「う、ううん、なんでもない。雨だから……来ないかと思って……」
「来るよ」
すぐ近くで聞こえる音羽くんの声。傘を叩く雨の音と混じり合う。
「迎えに来るって言ったろ?」
「……うん」
透明な傘をゆらりと動かして、音羽くんが空を見た。
「雨、やみそうにないけど……」
ぽとりと落ちた音羽くんの声は、私の心に深く深く沈んでいった。
雨の中、それぞれの傘をさして並んで歩いた。傘のせいでふたりの距離は少し遠く、雨音のせいで音羽くんの声も遠く聞こえた。
「しょうがない。予定変更。映画でも観にいこっか」
「予定通りだったら、どこ行こうとしてたの?」
「遊園地」
ほんとうに、デートするつもりだったのかな。この私と?
駅の改札を抜けて、電車に乗った。前にここで愛菜ちゃんたちに会ったことを思い出し、胸にきゅっと痛みが走る。忘れたくても忘れられない。自分が傷ついた思い出は、いつまでも忘れられないんだ。
隣町の駅で電車を降りた。映画館で今日上映される映画のタイトルを、音羽くんとながめる。
「なにか観たいのある?」
「特には……」
こういうとき、答えをちゃんと出したほうがいいんだろうか。でも本当に「これが観たい!」という映画はなかったし。そもそも映画を観るのなんて久しぶり。前に来たときは……そうだ。愛菜ちゃんたちと一緒だった。
「じゃあ、これにする」
音羽くんが海外のアクション映画を選んで、チケットカウンターへ向かった。私も急いでそのあとをついていく。
音羽くんは、こういうの、したことあるのかな。
私の分も一緒に買ってくれている、音羽くんの背中を見ながら思う。
女の子とデートとか……したことあるのかな。
暗闇の中でスクリーンをながめる。大きい音は、昔からちょっと苦手だった。いちいちびっくりしてしまうから。
「芽衣は怖がりだなぁ」と、小さい頃、お父さんと行った映画館で言われたことがある。子ども向けの、アニメ映画だったと思うのに。情けない。
音羽くんはどうなのかな、なんて、ちらりと隣の席を見る。スクリーンから弾けるひかりが、音羽くんの顔を照らしている。
真っ直ぐスクリーンを見ている音羽くんは……どこかぼうっとしていた。
見ているのに、見ていない。きっと映画の内容なんか頭に入っていない。
ただ淡々と画面を見つめて、この時間が過ぎ去るのを待っているような感じだった。
「あー、おもしろかったぁ」
ロビーへ出ると、音羽くんはそう言って、大きく伸びをした。
ほんとうにそう思ってるのかな。とてもそうとは思えない。
「次、どこに行く?」
音羽くんが私を見た。私はぽつりと音羽くんに言う。
「お腹……すいたかも」
「じゃあ、メシ食いに行こう」
音羽くんがすたすたと歩き出す。私はそれを追いかける。
建物の外に出たら、雨が強くなっていて、すごく蒸し暑かった。
「台風、こっちに来てるみたい」
隣で傘を開いた知らない人たちが、そう話していた。
オシャレなカフェに入って、お昼を食べた。一階がパン屋さんになっていて、二階が飲食スペースになっているお店だ。
「ここのサンドイッチがうまいんだよ」
音羽くんはこのお店を知っているようだった。
「音羽くん、来たことあるの?」
「昔。父さんに連れてきてもらったことがある」
ああ、そうなんだ。きっとここは、お父さんとの思い出の場所。そんな場所に私を連れてきてくれたことが、なんだかうれしい。
「うちの父親、さすがパン屋だけあって、いろんな店を知っててさ。休みの日は、パン屋めぐりにつきあわされて。あの頃は、休みの日までパンかよーって思ってたけど」
音羽くんがうつむきがちに、小さく笑う。私はそんな音羽くんを見つめる。
「そんなふうに文句を言える日が、いつまでも続くとは限らないんだよなぁ……」
ひとり言のようにつぶやくと、音羽くんは「いただきます」と言って、サンドイッチを食べた。私も「いただきます」と言って、音羽くんと一緒に食べる。
「どう? うまいだろ?」
「うん。おいしい」
私が言うと、音羽くんがふっと笑った。
それから音羽くんは、寛太くんの話をはじめた。田舎に住んでいるおばあちゃんが、寛太くんの家に来てくれて、保育園の送り迎えをしてくれたり、お母さんの病院にも連れて行ってくれたりしているそうだ。
だけど肝心な、さくらさんの話は一切しない。私も、それを聞くことができない。音羽くんの様子から、「そこには触れるな」という雰囲気が漂っていたから。
食事が終わったあと、隣の建物にあったゲームセンターに寄った。
「あ、あれかわいい」
ぶらぶらと歩いていたら、ぬいぐるみをキャッチするゲームを見つけた。大きくてもふもふした、ひよこのぬいぐるみがたくさん詰まっている。私の好きなキャラクターだ。
でも私、こういうのは苦手。一度も取れたことがない。
「じゃ、俺が取ってやる」
「え……」
ちょっと言っただけなのに。音羽くんは財布から百円玉を取り出し、いきなり始めている。
「あー、くそっ、なんだよ」
取れなくて、百円玉を追加する。
「あっ、惜しい! もうちょっとだったのに!」
音羽くんはまた百円玉を出している。私はあわてて、音羽くんに言う。
「ねぇ、もうやめようよ。これきっと無理だよ」
「無理じゃない」
低くつぶやいた音羽くんがまた百円玉を入れた。
ガラス越しにぬいぐるみを見つめる音羽くんの視線。アームが動き、それをつかみ、運んでいく。だけどあと一歩のところで、またぬいぐるみは落ちてしまった。
「ああっ……」
私は思わず声を上げた。
「ねぇ、やっぱりこれ無理……」
言いかけて、隣に立つ音羽くんを見た。音羽くんはなにかを考え込むように、じっとガラスの向こうを見ている。
「音羽くん?」
音羽くんはにぎった拳で、こつんとガラスを叩くと、頭をそこに押し付けた。
「なんでだよ……」
振り絞るような声。私は音羽くんの腕をつかんだ。
「もういい。もういらない。私、こんなのいらないから。だからもう帰ろう」
音羽くんの腕をゆする。だけど音羽くんは動こうとしない。
「音羽くん!」
私の声にはっとしたように、音羽くんが顔を向けた。
「音羽くん……帰ろう?」
そう言った私の顔を、音羽くんはぼんやりとした顔つきで見つめていた。
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