6月23日(土) 晴れ 1
梅雨の晴れ間のその日は、朝から気温がぐんぐんあがっていた。
私は半袖の服を引っ張り出し、鏡の前で何度も着替えた。いつものジーンズとTシャツではなく、ふわりとしたスカートもはいてみた。
だって、寛太くんのママのお見舞いに行くんだし。一応ちゃんとした格好していかないと。
『そしたら土曜日、迎えにくるよ』
ふっと音羽くんの言葉が頭に浮かんで、胸がどきどきして、でも首を横に振って、思い出した言葉を振り払った。
私、なに考えてるんだろう。音羽くんは寛太くんのために、今日のことを考えたのに。べつに私のためなんかじゃないのに。
でもその言葉のおかげで、私は少しだけがんばれた。木曜日と金曜日、制服を着て学校へ行けたのだ。まだみんなとは別の教室だったけど。
インターフォンの音が鳴る。「はーい」とお母さんの声がする。あわてて時計を見ると、もう約束の時間だった。
私は急いで薄手のブラウスをはおり、マスクをつけ、いつものバッグを持つと、階段を駆け下りた。
玄関に行くと、お母さんが誰かとしゃべっていた。
「ああ、芽衣。お迎えにきてくれたわよ」
お母さんがそう言って振り向く。ドアのところには、音羽くんと寛太くんが立っていた。
「おねえちゃん!」
寛太くんが嬉しそうに手を振る。私も笑顔で手を振って、ちらりと音羽くんを見る。音羽くんは口元だけで、軽く「よっ」とつぶやいた。
「ええっと、寛太くんと、音羽くんでしたっけ? 今日は芽衣をよろしくお願いします」
お母さんが音羽くんたちの前で、にっこりと頭を下げる。
「いえ。こちらこそ」
音羽くんはちょっと気取って、お母さんに挨拶している。
お母さんには今日の行き先を話してあった。電車に乗って行くんだと言うと、「いいじゃない。行ってらっしゃい」と背中を押してくれた。
「寛太くん。ママに会いに行くんですってね? よかったね?」
「うん!」
嬉しそうに笑う寛太くんは、パン屋さんの袋を大事そうに持っている。きっとあの中に、ママにあげるパンダさんのパンが入っているんだ。
「じゃあ、行ってきます」
靴を履いて、お母さんに言った。
「気をつけてね」
お母さんはにこにこしながら、手を振ってくれた。
駅までの道を三人で歩いた。寛太くんはずっと音羽くんと手をつないでいる。「お兄ちゃんの手を離しちゃダメだぞ」ってお父さんから言われたのを、ちゃんと守っているらしい。
「おにいちゃん。ぼくね、ママと会うために、泣かないで保育園行ったよ」
「へぇ、えらいじゃん」
音羽くんはそう言ったあと、私を見て言う。
「芽衣も泣かないで行けたのか? 学校」
からかうようなその言葉に、怒った顔で言い返す。
「な、泣いたりしないもん! ちゃんと行けたもん!」
「おねえちゃん、えらい!」
寛太くんの無邪気な声に、自然と顔がほころぶ。音羽くんはその隣で、にやにやと笑っている。
空は青く晴れていた。私のスカートが風にふわりと揺れる。音羽くん、私がスカートをはいてきたこと、気づいてくれたかな、なんてちょっと思う。
やがて駅に着いて、改札に入ろうとしたとき、寛太くんがもじもじし始めた。そして音羽くんの手をひっぱって、こそっと耳打ちをする。
「え、おしっこ?」
改札の表示板を見る。乗ろうとしていた電車がもうすぐ来る。
「しょうがねぇなぁ。一本遅らせるか」
音羽くんは寛太くんの手をにぎり直すと、私に言った。
「ちょっとここで待ってて。トイレ行ってくる」
「うん」
「おにいちゃーん。もーがまんできないー」
「マジか? もっと早く言えって!」
音羽くんが寛太くんを抱きかかえるようにして、トイレに駆け込んでいく。私はひやひやしながらそれを見送る。
でも音羽くんって、けっこう面倒見がいいのかも。頼りになる。
「あれ、芽衣じゃない?」
そのとき私の背中に声がかかった。心臓がどきんっと跳ねる。
「あ、やっぱ芽衣だ」
「マジで? 久しぶりじゃね?」
「元気してた?」
ゆっくりと振り返ると、三人の女の子たちがこっちに寄ってくる。小学校から仲の良かった愛菜ちゃんたちだ。
私はマスクで顔を隠すようにして、身体をこわばらせた。
「どっかいくの?」
「遊び?」
「ひとりで?」
三人が口々に聞いてくる。まるでいままでのことが、なんにもなかったかのように。私は三人に会うのが、ものすごく怖かったのに。
「あたしらこれから映画行くんだけど。芽衣も一緒に行く?」
「ちょっと、愛菜ぁ」
愛菜ちゃんの声に、他のふたりがくすくすと笑う。
「あ、無理か。無理だよね」
「そんなことより、電車来るよ」
ふたりが愛菜ちゃんの腕を引っ張る。
「そんじゃあね、芽衣」
愛菜ちゃんが軽く手を振って、背中を向ける。そして小さく笑ってつぶやいた。
「学校来れないくせに、遊びには行けるんだ」
三人の笑い声が遠ざかる。私はその場に突っ立ったまま、震える手で、マスクの上から口元を覆った。
「おねえちゃーん!」
私に駆け寄ってくる足音。小さな手がスカートをつかむ。
「おねえちゃん? どうしたの?」
寛太くんが不思議そうに私を見上げる。私は口元を覆ったまま、首を横に振る。視線を上げたら、私を見ている音羽くんと目が合った。
「ごめ……ちょっと……」
私は泣きだしたくなるのをこらえて、トイレに駆け込んだ。
悲しくて、悔しくて、情けなくて、涙が出てきた。たった二日間、別室登校できただけで浮かれてた自分が、バカみたいだ。
でも音羽くんたちに、迷惑はかけられない。今日は寛太くんがママに会いに行く、大事な日。
早く戻らなきゃ。早く戻って、なんでもないような顔して笑わなきゃ……そう思うのに、身体がいうことをきいてくれない。
気持ちが悪くて、吐こうとしたけど吐けなかった。その代わりに涙があふれて、私はトイレの中で、声を押し殺して泣く。
私は弱くて、情けない。こんな自分が大嫌いだった。
顔を洗ってトイレから出ると、ふたりが改札のそばで待っていた。
「おねえちゃん!」
寛太くんが駆け寄ってきて、私の顔を心配そうに見上げる。
「だいじょうぶ? お腹痛いの?」
「ううん……もう平気。ごめんね?」
そんな私に音羽くんが言った。
「帰るか?」
私は首を横に振る。
「行きたい。もう大丈夫だから、私も一緒に連れてって」
音羽くんはなにも言わずに、じっと私のことを見ていた。
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