6月20日(水) 雨 2
その日の帰りは、音羽くんが家まで送ってくれた。「ひとりで大丈夫」と私は言ったのに、「いつもより遅くなっちゃったから」と、さくらさんが音羽くんに頼んだのだ。
夏のはじまりの、夜のはじまり。外はまだうっすらと明るい。雨はしとしとと降り続いている。
いつものようにマスクをつけて、傘で顔をかくすようにして歩く。隣には音羽くんがいる。傘に、雨の音が響く。
「この前……ありがとう」
傘の中でつぶやくと、音羽くんは「なにが?」と言った。
「チョココロネ、おいしかった」
「ああ……」
「音羽くん、パン屋さんになれるんじゃないの?」
冗談っぽく言って、傘の陰から音羽くんを見上げる。音羽くんは真っ直ぐ前を見たまま、つぶやいた。
「なれたらいいけど。父さんみたいに」
音羽くんのその表情に、はっとした。冗談なんかじゃなく、音羽くんは本気だったんだ。本気でパン屋さんになりたいって、思っているんだ。
「な、なれるよ! 音羽くんのパン、すっごくおいしかったもん。絵も上手いから、きっとかわいいパン作れるし。さくらさんのお店みたいに、やさしいお客さんがいっぱいくるよ!」
音羽くんは私を見ないまま、ふっと笑う。
「なに必死になってんの? ヘンなヤツ」
おかしいかな、私。でもほんとうに、そう思ってる。ほんとうに音羽くんは、お父さんみたいなパン屋さんになれるって。
「お前はひとのことより、まず自分のことを考えろ」
傘をすっと動かして、音羽くんが私を見た。
「明日学校行くんだろ? がんばれよ。まぁ、無理そうだったら帰ってくればいいし。学校行かなくたって、俺みたいになんとか高校生になれるから」
音羽くんの言葉に「うん」とうなずいた。
「俺も明日とあさって学校行く。そしたら土曜日、迎えにくるよ」
私たちは立ち止まる。もう家の前に着いていた。
「パンダのパン焼いて、カンちゃん連れて、芽衣んちまで来るから」
「うん」
「だから待ってて」
私はもう一度、うなずく。雨粒が音羽くんの透明な傘をつうっと伝わり、足元にぽつりと落ちた。
「じゃあ」
軽く手を上げた音羽くんが背中を向けた。
「ありがとう」
私はその背中に伝える。
送ってくれてありがとう。おいしいチョココロネをありがとう。土曜日の楽しみをくれてありがとう。
「音羽くん! またね!」
大きな声でそう言って、傘の中で手を振った。どうしてもそうしたかったから。
雨の中で振り返った音羽くんは、私に小さく笑いかけて、私と同じように手を振った。
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