5月30日(水) 曇りのち雨 2
「ああ、芽衣ちゃんじゃない! ちょうどよかった」
お店の中にはさくらさんと、それから市郎おじいちゃんが立っていた。おじいちゃんは私を見て、にこにこと目を細めた。
「おじいちゃんね、無事に退院して、これから娘さんのおうちに行かれるんですって」
ああ、そうか。おじいちゃん、行ってしまうんだ。外の車で待っているのは、娘さんなんだそうだ。
おじいちゃんは私とさくらさんを交互に見ながら言う。
「さくらさんとお嬢さんには、本当にお世話になったね」
「よかったです。お元気になられたようで」
「いやいや、あの日、お嬢さんたちが訪ねてきてくれなかったら、どうなってたことか……」
おじいちゃんはそう言って私を見る。私はあわてて首を横に振る。
「いえっ、私はなんにも……」
「そんなことない。お嬢さんと音くんは、わしの命の恩人だ」
にこにこ微笑んだおじいちゃんが、さくらさんに聞く。
「で、今日、音くんは?」
「ああ、あの子、まだ学校から帰ってなくて」
「ほう、学校に……それはよかった」
おじいちゃんはうんうんとうなずいて、にっこりと微笑む。
「さくらさん。心配しなくても大丈夫。あの子はちゃんと強くなってる」
「そうでしょうか……いつまでたっても危なっかしくて……」
「いやいや。大丈夫。このわしが保証する」
おじいちゃんの言葉に、さくらさんは苦笑いをしている。
さくらさん、音羽くんのこと、そんなに心配なのかな。
『俺がしっかりしなくちゃ、このひとダメじゃんって思ったら、とりあえず高校くらいは行こうかなって』
音羽くんはさくらさんのことを、心配している。さくらさんのために、がんばろうって思ってる。だから私も、音羽くんは大丈夫だと思う。
「じゃあ最後に、あんぱんをふたつもらおうかね?」
おじいちゃんが私に笑いかけてくれた。
「はい」
私は返事をして、あんぱんをふたつ袋に入れる。
市郎おじいちゃんと、おばあちゃんの分。
「ありがとう」
私からパンの入った袋を受け取ると、おじいちゃんは私の手のひらに、お金をのせてくれた。
「それじゃあ、わしはそろそろ」
「お体に気をつけてくださいね」
さくらさんが声をかける。
「さくらさんも。それから音くんにも、よろしく」
おじいちゃんがパンを大事そうに抱えて、お店を出ていく。さくらさんと私も店の前まで出て、おじいちゃんの乗った車を見送る。
小雨の降る中、住宅街のほうへ、車はゆっくりと走り去って行った。
「……行っちゃったね」
さくらさんがつぶやく。
「はい」
「寂しいね。やっぱり」
私を見たさくらさんが、静かに微笑む。
「でもよかったよ。おじいちゃん、元気になって。いつまでも長生きしてもらいたいね」
さくらさんの声に、私はうなずく。にっと笑ったさくらさんは「お茶でも飲もうよ」と言って、お店の中へ入っていく。
私もそのあとに続いてお店に入りかけ、ふと足を止めた。
坂道をのぼりきったあたりで、傘をさして立ち止まっている人影を見つけた。
「……音羽くん?」
透明な傘の陰に、隠れるようにして立っているのは、高校の制服を着た音羽くんだった。
私は屋根の下から飛び出して、音羽くんに駆け寄る。しとしとと降る雨が、しっとりと私の髪を濡らしていく。
「音羽くん!」
名前を呼ぶと、傘を揺らした音羽くんが、私のことを見た。
「いつからここにいたの?」
音羽くんの前で立ち止まり、その顔を見上げる。音羽くんはゆっくりと手を動かして、私に傘をさしかけた。
「さっきから、ずっと」
「どうして? 市郎おじいちゃん、行っちゃったよ?」
「知ってるよ。ここから見てたから」
音羽くんが私から目をそらす。
「おじいちゃんに会ったら……泣いちゃうから?」
私が言うと、音羽くんは怒った顔で言い返してきた。
「ふざけんな。どうして俺が泣くんだよ!」
「泣くでしょ?」
顔を赤くした音羽くんが、ふいっと私から視線をそらす。傘は私に傾けたまま。
私、なんとなく音羽くんの性格、わかってきちゃったかもしれない。
「おじいちゃん、言ってた」
私は音羽くんの横顔につぶやく。
「音羽くんは……大丈夫だって」
音羽くんは顔をそむけたまま、なにも言わない。
「音羽くんは、ちゃんと強くなってるって」
傘を持っていない方の手で、音羽くんが鼻をこする。その目が赤くなっている。
私は音羽くんの手から、傘を奪った。そして手を高く上げて、私のほうから傘をさしかける。
「帰ろう。さくらさんのところに」
細い雨が、私たちの上から降っていた。
市郎おじいちゃんは、もう水曜日にパンを買いに来ない。だけどいなくなってしまったわけじゃない。
おばあちゃんの好きだったパンの味と、小さかった頃から見守ってきた音羽くんのことは、きっと忘れないでいてくれる。
そしてまたいつか、会える。
音羽くんが前を向き、ふてくされたように歩き出す。私はそんな音羽くんに傘を傾けながら、隣を歩く。
パン屋さんのドアが開いた。両手を腰に当てたさくらさんが、私たちのことを見ている。
私たちは雨の中を歩く。ゆっくりと歩く。
その足取りはたぶん、他のみんなよりも遅いけど。それでも私たちは、少しずつ進んで行く。
お店の前まで行くと、さくらさんがいつもみたいに明るく笑った。
「おかえり」
音羽くんはなにも答えなかった。だけどきっと、さくらさんの声は音羽くんに届いてる。
「芽衣ちゃん、ミルクティーいれたよ。一緒に飲もう」
「ありがとうございます」
さくらさんは私に笑いかけたあと、音羽くんに言う。
「音羽も飲む? いれてやってもいいけど?」
「いらねぇよ」
音羽くんは私たちを残し、さっさと店の中へ入っていく。
「ほんと、素直じゃないんだから。ねぇ?」
さくらさんに同意を求められ、私はこくんとうなずく。
音羽くんは素直じゃない。
ほんとうは市郎おじいちゃんのことも、さくらさんのことも、とても大切に想っているのに。
「雨、やみそうにないね」
さくらさんが空を見上げた。私も同じように空を見て、音羽くんの透明なビニール傘を閉じる。
しとしとと降りつづく雨が、足元に水たまりを作っていく。
「芽衣ちゃん」
空を見上げたまま、さくらさんがつぶやいた。
「これからも、うちのバカ息子のこと、お願いね?」
私は黙ってさくらさんを見る。さくらさんは私の顔を見つめて、ふふっと笑う。
そのときはまだ気づかなかった。
さくらさんがどうしてそんなことを言ったのか。
私はまったく気づいていなかった。
午後から降り始めた雨は、夜遅くまでやむことはなかった。
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