5月16日(水) 雨 2
音羽くんが古い門を開ける。ぎいっと錆びた音が雨の中に響く。草の生い茂った庭を通って、玄関の前に立つと、音羽くんが声を上げた。
「市郎じいちゃーん」
耳をすましてみる。雨の音しか聞こえない。
音羽くんが私を見た。私は傘の柄をぎゅっとにぎる。
なんだか嫌な予感がした。胸の奥がざわざわして、落ち着かない。
「じいちゃん?」
音羽くんが玄関の引き戸に手をかけた。カラリと音を立てて、それが開く。
「じいちゃん!」
おじいちゃんを呼ぶ、音羽くんの声。だけど返事はない。玄関は開いたままなのに。でかけているの? それとも……。
音羽くんが靴を脱いで、玄関から上がった。私もあわててそれに続く。
「じいちゃん? いるの?」
もう一度音羽くんが、おじいちゃんを呼ぶ。心臓のざわざわがひどくなる。
音羽くんが部屋の襖に手をかけた。一瞬ためらったあと、それを一気に開く。
畳の部屋が見えた。音羽くんの動きが止まる。私はその後ろから、そっと中をのぞきこむ。
部屋の真ん中の畳の上に、誰かが横になっていた。白髪のおじいさん……市郎おじいちゃんだ。
寝てるの? ううん、違う。そうじゃない。
「……じいちゃん?」
音羽くんがつぶやいた。けれどおじいちゃんは、ぴくりとも動かない。
私は音羽くんのシャツの袖をきゅっとつかむ。あんぱんの袋を持つ音羽くんの手が、かすかに震えているのがわかる。
「……どうしよう」
音羽くんがつぶやいた。途方に暮れたような声で。
「きゅ、救急車? それともさくらさんに……」
そう言いながら、私もどうしたらいいのかわからなかった。
私たちは無力だ。こんなとき、咄嗟の判断ができない。倒れている人を目の前にして、どうすることもできずにいる。
『まだ子どものくせに、ね?』
いつか聞いたさくらさんの声が、今になって頭に響く。
音羽くんがポケットからスマホを出した。震える指で、電話をかける。
「さ、さくらさん?」
音羽くんの声を聞きながら、私はずっと、音羽くんの服の袖をにぎりしめていた。
さくらさんの指示を受け、音羽くんが救急車を呼んだ。同時にさくらさんも、急いで駆けつけてきてくれた。救急車の中に運び込まれる頃、市郎おじいちゃんは意識を取り戻した。
「もう大丈夫。心配しないでいいから。あんたたちは先に家に帰ってなさい」
一人暮らしのおじいちゃんに付き添って、さくらさんが救急車に乗り込んだ。まだ呆然としている私と音羽くんを残して、救急車はサイレンを鳴らし走り去っていく。
「……音羽くん?」
私は音羽くんに声をかけた。音羽くんはあんぱんの袋を持ったまま、ぼんやりと立ちつくしている。
「……帰ろう?」
しばらく黙り込んでいた音羽くんが、やっと「うん」と返事をした。
雨の中、ふたりで無言のまま歩いて、さくらさんの店の前で立ち止まる。店の入り口には『都合により本日の営業は終了しました』と書かれたプレートがかかっている。
そんな店の前で、音羽くんはまだぼうっとしていた。
「音羽くん……大丈夫?」
おじいちゃんのことは心配だけど、さくらさんがついているし、病院で手当てしてもらえばきっと平気だ。それより青白い顔をしている音羽くんのほうが気になる。
「ひとりで……大丈夫?」
ドアの閉じられたお店はひっそりと静まりかえっている。このまま音羽くんは、誰もいない家に帰らなくてはならない。
私の言葉に、音羽くんは我に返ったようにこちらを見る。
「大丈夫だよ。お前は?」
「私は大丈夫」
「ひとりで帰れる?」
「うん」
音羽くんは小さくうなずくと「じゃあ」と言って、裏口から自宅に帰っていった。
私はその姿を見送ってから、坂道をひとりで降りる。
傘を叩く雨の音だけが、耳にうるさく響き続けた。
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