第2章 思い出のあんぱん

5月16日(水) 雨 1

 図書館で貸出手続きをして外へ出る。朝から降り続いている雨は、まだやまない。天気予報によると、この雨は明日まで降り続くらしい。

 傘を低くさし、坂道をのぼって、さくらさんのパン屋さんへ行く。今日はいつもより遅くなった。本を読むのに夢中で、時間が経つのを忘れてしまったのだ。

 カランとベルを鳴らして店に入ると、もう聞き慣れた低い声が聞こえた。

「いらっしゃいませぇ……」

 そして私に気づくと、不機嫌そうに言葉をつなげる。

「……なんだ、芽衣か」

 そんな言い方にも、もう慣れた。

「こんにちは」

 レジの向こうに座っているのは、音羽くんだった。退屈そうに漫画雑誌をぱらぱらとめくっている。店の中は今日もあたたかく、甘い匂いがマスクをしていてもわかった。


 私は首を伸ばし、厨房の中をのぞきこむ。

「さくらさんだったら、いないよ」

「え?」

「今日は病院行った」

「病院? どこか悪いの?」

「まさか。あの人が病気になると思うか? 健康診断の結果を、聞きに行かなきゃなんないんだってさ。もうすぐ帰ってくると思うけど」

 音羽くんは雑誌をぱたんと閉じると、壁に掛かっている時計をちらりと見た。

 そうか。今日はさくらさん、いないんだ。それで音羽くんがお店番をしているのか。もう学校終わったのかな。早いんだな。

 私はその場に立ったまま、困ってしまう。やっぱりさくらさんがいないなら帰ろう。音羽くんとふたりきりなんて、なんだか気まずい。


「……遅いな」

 突然音羽くんがつぶやいた。私は顔を上げて、音羽くんを見る。

「え……さくらさん?」

「違う。市郎じいちゃん」

 市郎じいちゃんって……いつもあんぱんを買いにくる、あの白髪のおじいちゃんか。

「いつもだったら、もう来てるはずなのに」

「雨……降ってるからじゃない?」

「雨が降っても、あの人はちゃんと来る。もうずっとそうだったんだ。俺が小さい頃から」

 私は窓の外で降り続く、雨を見つめる。さっきよりも雨脚が強くなったみたいだ。

 カランと音が鳴って、ドアが開いた。スーパーの袋を両手にぶら下げたさくらさんが、ふうふう言いながら入ってくる。


「ただいまぁ。あ、芽衣ちゃん、来てたんだ」

「こんにちは」

「こんにちは!」

 さくらさんがにっこり笑いかけてくれる。よかった。さくらさんに会えるとほっとする。

「雨、やまないねぇ。ちょっと買いすぎちゃった」

 さくらさんはそう言いながら、厨房の中へ入っていく。病院の帰りに買い物してきたのかな。肩が雨で濡れている。

 すると音羽くんが、急に立ち上がって言った。


「俺、ちょっと出かけてくる」

「え、どこに?」

 さくらさんが袋から食材を取り出しながら、不思議そうに音羽くんを見る。音羽くんはなにも答えずにカウンターから出て、あんぱんをふたつ袋に詰めた。

「さくらさん。店番頼む」

「だから、どこ行くのよ?」

 音羽くんがあんぱんと傘を持って、私を見た。

「芽衣も来る?」

 私はトートバッグをぎゅっとにぎる。音羽くんにもらったキーホルダーが揺れる。

「うん。行く」

「じゃあ、ついて来い」

 音羽くんがお店を出ていく。

「ちょっと! どこ行くのって聞いてるの!」

 さくらさんの声に私が振り向き、音羽くんの代わりに答える。


「市郎おじいさんのところに、行くんだと思います」

「おじいちゃんのところに?」

「今日はまだ、お店に来てないみたいで」

 さくらさんが時計を見上げて、考え込むような顔をする。

「そうだね。今日はちょっと遅いね」

 お店の外から声がする。

「芽衣! 置いてくぞ」

 さくらさんがそっと私の背中を押す。

「あの子、おじいちゃんの家知ってるから。芽衣ちゃんも一緒に、ちょっと様子見てきてくれる?」

「はい」

「今日のあんぱんは、サービスってことでかまわないから。ね?」

 背中をぽんっと押されて外へ出る。透明な傘をさした音羽くんが、いつものようにふてくされた顔をして、私のことを待っていた。


 音羽くんの話によると、市郎おじいちゃんの家は、すぐ近所なんだそうだ。

 私たちは傘をさし、住宅地の中を並んで歩く。傘を叩く雨の音が激しい。

「市郎じいちゃん、ひとり暮らしだからさ」

 音羽くんのつぶやくような声に、私は「え?」と聞く。

「でもいつもおばあちゃんの分も、あんぱん買っていく……」

「ばあちゃんは、もういないんだ」

 私は傘の中から、そっと音羽くんの横顔を見上げる。音羽くんは真っ直ぐ前を見たままつぶやく。

「ばあちゃんは死んじゃったから。それでも毎週じいちゃんは、ばあちゃんの分まで、あんぱん買いに来てくれる」

「……そうだったんだ」


 おばあちゃんの好きだった、音羽くんのお父さんのあんぱん。それを市郎おじいちゃんは、ひとりでさくらさんのお店に買いにくる。

 雨が降っても、晴れていても。毎週水曜日に。

「ばあちゃんが元気なころは、いつもふたりで買いに来ててさ」

 音羽くんが雨を見ながら、ちょっと懐かしそうに言う。

「俺、中学のころは学校行かないで、いつもあの店にいたから。音くん、うちに遊びにおいでよ、なんて誘ってもらって、なんどか遊びにいったことがある」

 私は中学生だった頃の、音羽くんを想像する。

「ばあちゃんもやさしいひとでさ。俺にはおばあちゃんがいなかったから、本当のおばあちゃんみたいに思ってた」

 音羽くんもあの店に来るお客さんに、やさしくしてもらっていたんだ。


「音羽くんは……」

 傘の中でつぶやく。

「どうして学校に行こうと思ったの?」

 おいしいパンと、やさしいお客さん。ここはとても居心地がよくて、ずっとここにいたいと思ってしまうから。

 音羽くんは前を見たまま少し黙って、それからつぶやく。

「父さんが……死んだからかなぁ」

 私はそっと音羽くんの横顔を見る。


「さくらさんってさ、普段はあんなだけど、本当はめちゃくちゃ弱いひとなんだ。父さんが死んだときは、後を追って死んじゃいそうなくらい思い詰めてて、もう見てられなくて……俺がしっかりしなくちゃ、このひとダメじゃんって思ったら、とりあえず高校くらいは行こうかなって」

 音羽くんは雨を見ながらふっと笑う。

「そんな単純な理由で受験して、高校生になった」

「……単純なんかじゃないよ」

 私はつぶやく。

「音羽くんは……強いよ」

「どこがだよ」

 私はまだ無理だ。まだあの場所には戻れない。

 もう一度鼻で笑った音羽くんが立ち止まる。そして「ここ」と小さくつぶやく。

 雨の中にひっそりと建つ、平屋建ての古い家。ここが市郎おじいちゃんの家だという。

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