6月13日(水) 雨のち曇り 3
「さくらさん、本当にありがとうございました」
お店のドアの外に立ち、私とさくらさんは詩織さんを見送る。今日も音羽くんは見送りに出てこない。
「芽衣ちゃんも、ありがとうね」
詩織さんはそう言って、私に微笑む。
「しおちゃん! 元気でがんばってね」
お店の前でガッツポーズをするさくらさん。くすっと笑った詩織さんも、同じポーズをする。
「それじゃあ、さよなら」
「さようなら」
私は詩織さんに言った。
さくらさんにたくさん詰めてもらったパンの袋を抱えて、詩織さんが背中を向ける。
ひとりで歩き出す詩織さんを、さくらさんと見送る。
遠くなっていく詩織さんの背中。だけどまたきっと会える。詩織さんは笑顔でまたここに来る。
そのとき私たちの後ろで、いきおいよくドアが開いた。驚いて振り返ると、パンの袋を抱えた音羽くんが、飛び出してきた。
「しおっ……」
つぶやくように言ったあと、次は大きな声で、名前を呼んだ。
「しお姉ちゃん!」
詩織さんが振り返る。音羽くんは私たちを押しのけるようにして、詩織さんに駆け寄る。
「ちょっと、なんなの? あの子」
音羽くんとぶつかった肩をさすりながら、そうつぶやいたあと、さくらさんは私を見てにっと笑う。私は困って、微妙な笑顔を見せる。
「……どうしたの? 音くん」
振り返った詩織さんが言う。音羽くんは持っていた袋を、詩織さんに押し付けた。
「パン! 持ってって!」
「え、でももういっぱい、さくらさんからいただいたよ?」
「いいから!」
音羽くんが強引にパンの袋を詩織さんに持たせた。詩織さんは首をかしげながら、音羽くんに聞く。
「これ……開けてもいい?」
音羽くんは詩織さんから視線をそらして、なにも答えなかった。けれど詩織さんは、黙って袋を開き、中をのぞく。
「あ、チョココロネ」
「……好きだろ?」
「うん」
うなずいた詩織さんは、袋の中のチョココロネをじいっと見つめた。
「これ……さくらさんのとは違うよね?」
音羽くんはなにも言わない。
「もちろんご主人が作ったのでもないし……これってもしかして……」
詩織さんの言葉をさえぎるように、音羽くんが叫ぶ。
「あー! そうだよ! 俺が作ったんだよ!」
「やっぱり! すごい! おいしそう!」
詩織さんが袋の中からパンを取り出して、ぱあっと明るい笑顔になる。
「ねぇ、食べていい? 食べていい?」
「……食えばいいじゃん」
「じゃあ食べるね。いただきます!」
詩織さんがその場で口を開け、チョココロネにかじりつく。太い方から大胆にがぶっと。
「おいしい!」
「材料は一緒なんだから、誰が作っても同じだよ」
「違うよ。これは音羽くんの味だよ」
音羽くんの前で詩織さんがにこっと微笑む。
「小さい頃からいつも、お父さんのお仕事真剣に見てたもんね。私、知ってるよ?」
音羽くんが照れくさそうに、詩織さんから顔をそむける。
そんなふたりをぼうっと見ていた私に、さくらさんがこそっとささやく。
「あの子ね……」
さくらさんがふふっと笑う。
「今朝早起きして作ってたの。しお姉ちゃんのためにね」
「音羽くんも……パン作れるんですか?」
「音羽はなにやらせても器用にできるから。実は私より上手いくらい」
もう一度笑ったさくらさんは、背中を向けてドアを開く。
「じゃ、おばさんは消えますか」
「あっ、私もっ」
店の中に入っていくさくらさんを追いかける。だけどやっぱりちょっと気になって、ドアに手をかけ振り返る。
音羽くんと詩織さんが向かい合って立っていた。詩織さんは音羽くんの作ったパンを「おいしい、おいしい」って言いながら食べている。
ちょっとうらやましかった。あのチョココロネ、私も食べてみたかった。
「……チョコ、ついてる」
「え?」
音羽くんの指がふわっと動く。そして詩織さんの口元についたチョコに触れ、それを指先で拭き取る。
「ガキみてぇ」
「うるさいな。私、キミより、六つも年上なんですからね?」
「背、俺のほうが高いけど?」
「あー、昔はかわいかったのになぁ。どうしてこんなに生意気になっちゃったのかしら?」
詩織さんと音羽くんが顔を見合わせて、ふふっと笑い合う。
私の知らないふたり。私の知らない音羽くん。
私はふたりから背中を向けて、お店の中に入った。
さくらさんがいれてくれた紅茶をふたりで飲んでいたら、すぐに音羽くんが帰ってきた。
なんでもないような、すました顔をして。
「で、どうだったの?」
紅茶を飲みながら、さくらさんがさりげなく聞く。
「は? なにが?」
「しおちゃんに告白でもしたの?」
「だからそんなんじゃないって! いいかげんにしろよ!」
音羽くんは怒った顔で、また裏口から出ていってしまった。
「ちょっとからかいすぎたかな?」
さくらさんがいたずらっぽい顔で舌を出す。私は少し笑って、立ち上がった。
「ごちそうさまでした。今日はこれで」
「ありがとうね、芽衣ちゃん」
椅子の上に置いてあったバッグを肩にかけながら、振り返る。
さくらさんは座ったまま私を見上げ、にこにこと微笑んでいる。
「来てくれて、ありがとう。芽衣ちゃん」
「……私はなにも」
さくらさんが静かに首を横に振る。私はなんだか恥ずかしくなって、ぺこりと頭を下げて外へ出た。
梅雨時の、ちょっとじめついた空気を吸い込む。マスクを忘れていたことに、また気づいたけれど、もういいや。
開き直って坂道を歩く。すれ違うひとの目は、まだやっぱり怖いけど。
そのときバッグの中で、がさりとなにか音がした。そういえば来たときよりも、少しかさばっている気がする。
不思議に思って、バッグの中をのぞいてみた。
「え……なに?」
紙袋を取り出す。さくらさんのお店の袋だ。でも今日はパンを買ってないのに。
そっと袋を開いてのぞいてみる。
「あ、これは……」
中に入っていたのは、三つのチョココロネ。さくらさんの作ったのとはちょっと違う。
これは――音羽くんのチョココロネだ。
「いつのまに……」
マスクをしていない鼻で、パンの香りを嗅ぐ。甘くてやさしい香りだ。私は袋を閉じて、バッグの中にもう一度しまう。大事に大事にしまう。
家までの道を、少し早足で歩いた。本当はスキップでもしたい気分だった。
家に帰ったら、音羽くんのチョココロネを食べよう。それからあの問題集で、ちゃんと勉強しよう。
『でもさぁ、マジでうちの学校来れば?』
行けたら……いいな。音羽くんと同じ高校に。
まだぼんやりとだけど。今日私には、ひとつの目標ができた。
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