8月1日(水) 晴れ 1

 午後、音羽くんが家まで迎えに来てくれた。今日はさくらさんの病院へお見舞いに行く日だ。

 外は真夏の太陽がぎらぎらと輝いていた。私はマスクの代わりに、麦わら帽子をかぶって外へ出る。

「今日はマスクしてないんだ」

 駅への道を歩きながら、音羽くんが言う。

「……暑いから」

 小さく私が答えると、音羽くんは笑った。

「いいんじゃないの? それで」

 胸が少しどきどきする。帽子を深くかぶって、うつむいたまま歩いた。そんな私のペースに合わせて、音羽くんはゆっくり歩いてくれる。

「今日もあっついなぁ……」

 ちらりと隣に顔を向けると、音羽くんが眩しそうに青い空を見上げていた。


 電車に乗って、大学病院のある駅で降りた。さくらさんの入院している病院は、寛太くんのママが入院している病院だった。

 まさかママのお見舞い以外で、またここに来るとは思ってもみなかった。

 音羽くんとエレベーターに乗った。看護師さんに車いすを押してもらっている、小さな男の子と一緒だった。男の子はニットの帽子をかぶって、マスクをしていた。看護師さんはその子に明るく話しかけていた。病院に来ると、いろんなひとと出会う。

 男の子が先に降りて、私たちは七階まで上がった。

 エレベーターから降りると目の前にナースステーションがあって、二手に分かれて廊下が続いていた。音羽くんは迷わず右側の通路を歩く。私はそれについて行く。


「ここ」

 音羽くんがつぶやいて、部屋の中へ入る。中は二人部屋で、手前のベッドにさくらさんが横になっていた。

「ああ、芽衣ちゃん。来てくれたの?」

 すぐに気づいたさくらさんが起き上がろうとする。

「あ、そのまま寝ててください」

「大丈夫、大丈夫。もうなんともないの」

 あわててかけよった私にさくらさんが言う。

「こんな遠いところまで……ごめんね、芽衣ちゃん」

「いえ。あの、これ……よかったら飾ってください」

 私は小さなカゴに入ったブリザーブドフラワーを、さくらさんに渡した。さくらさんの名前のイメージに合った、やさしいピンク色のお花がアレンジされている。昨日花屋さんに行って、自分のおこづかいで買ったのだ。

「わぁ、かわいい」

「退院したあとも、飾れると思って」

「うん。飾る飾る。お店に飾らせてもらうよ。ありがとう、芽衣ちゃん」

 さくらさんが嬉しそうにそう言ってくれた。私はほっと胸をなで下ろす。


 病室の中はあかるい日差しが射し込んでいた。窓際のベッドは空いていて、窓からはこのあたりの街並みや、遠く緑の山までも見えた。

「芽衣ちゃん、座って。あ、音羽、椅子もうひとつ持ってきて」

 音羽くんが隣のベッドのほうから椅子を持ってくる。さくらさんはベッドの上にゆっくりと起き上がる。私はそっとさくらさんの背中を支えた。

「大丈夫ですか?」

「平気平気。やだなぁ、私、すっかり病人になっちゃったね」

「病人だろ?」

 椅子を持ってきた音羽くんが横から口を出す。さくらさんは何も言い返さずに、口元をふっとゆるませる。


「ほら、着替え、持ってきたから」

「ありがと。そこに入れておいてくれる?」

 音羽くんは言われたとおりに、紙袋の中身をベッドの脇のロッカーにしまっている。私はそんな音羽くんの背中をぼんやりと見つめる。

「芽衣ちゃん、座って」

「はい」

「音羽。それ終わったら、芽衣ちゃんにジュース買ってきてあげて。お金、そこにあるでしょ?」

「あ、私だったら、大丈夫ですから」

「いいのいいの。音羽、お願いね」

 音羽くんは返事もしないで、そのまま部屋を出ていった。


 消毒液のような、独特の匂いが漂う病室の中で、私はさくらさんとふたりきりになった。

「ここ、カンちゃんのママが入院してる病院なのよね」

 ベッドの上でさくらさんがひとり言のようにつぶやく。

「きっともうすぐ、元気な赤ちゃんが産まれるね」

 私はさくらさんの前で、小さくうなずく。

「産まれるひとがいる一方で、亡くなるひともいる。病院って不思議なところ」

「さくらさん……」

 つぶやいた私の前で、さくらさんはふふっと笑う。

「ごめん。私が死ぬとか言ってるわけじゃないんだよ? 手術も成功したし、とりあえずは転移も見つからなかったし。来週には退院できそうだから」

「よかったです」

「早く帰って、お店を開けるようにしなくちゃ」

 さくらさんはそう言って笑ったけど、やっぱりどこか元気がなかった。入院して手術もしたあとなんだから、当たり前だろうけど。


 さくらさんはゆっくりと視線を動かして、窓際を見つめた。窓の外はあざやかな景色が広がっている。

「芽衣ちゃん」

「はい」

「音羽から聞いたよ。芽衣ちゃんにはお世話になってるって。ありがとうね」

「そんな……私はなんにもしてません」

 あわてて首を横に振る。

「お世話になってるのは、私のほうです」

 さくらさんが私に視線を戻して、静かに微笑む。

「ううん。芽衣ちゃんが音羽のそばにいてくれてよかった。これからもよかったら仲良くしてやってね。頼りない息子だけど」

「そんなこと……ないです」

 私はもう一度、首を横に振ってから、振り絞るように声を出す。

「音羽くんには……たくさん助けてもらったんです。だからありがとうって言いたいのは、私のほうです」

 さくらさんは私に微笑みかける。私はほっと胸があったかくなる。やがて病室のドアが開いて、ビニール袋をぶら下げた音羽くんが、私たちのもとへ戻ってきた。


 音羽くんの買ってきてくれたジュースを飲みながら、三人で話した。病気の話や、治療の話はしなかった。さくらさんは音羽くんの小さい頃の話をして、音羽くんが「いい加減にしろよ」と文句を言っていた。

 穏やかな病室での時間はあっという間に過ぎて、私は「そろそろ……」と言って立ち上がった。もっとさくらさんとお話したかったけど、疲れさせてはいけない。

「さくらさん。今日はお話できてうれしかったです。ありがとうございました」

「なに言ってるの。お礼を言うのはこっちのほうじゃない。ありがとう、芽衣ちゃん」

 さくらさんがにっこりと笑う。早くこの笑顔を、さくらさんのお店で見たいと思う。


「じゃあ音羽。芽衣ちゃんを送ってあげて」

「いえ、帰りはひとりで大丈夫です。音羽くん、まだやることあるでしょ?」

「ないない、この子がやることなんて。帰っていいよ、音羽」

 さくらさんに言われて、音羽くんが立ち上がる。

「じゃあ、帰ろうか」

「でも……いいの?」

「いいのよ。今度はお店で会おうね、芽衣ちゃん」

 さくらさんがベッドの上から私に手を振る。

「行くぞ」

「あ……じゃあ、また。さくらさん」

「またね」

 私はさくらさんの前でぺこりと頭を下げると、部屋を出ていく音羽くんのあとに続いた。

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