5月2日(水) 晴れ 2
試作パンを食べたあと、音羽くんはパンの包み方や、レジの使い方を教えてくれた。
「パンの値段も全部覚えろよ。まぁそんなに種類多くないから、余裕だろうけど」
「はい」
私は音羽くんの隣に立って、棚に並んでいるパンをながめる。それぞれに値札がついてあって、かわいいイラストが描いてある。
「このイラストかわいい。さくらさん、絵が上手いんですね?」
「え、そうかぁ?」
なぜだかあわてて、顔をそむける音羽くん。どうしたんだろう。そんな私たちの背中に声がかかった。
「ああ、それ私じゃないんだ。音羽が描いたの」
「ええっ!」
びっくりして、声を上げてしまった。だって女の子が喜びそうな、とってもかわいいイラストだったから。
ちらりと横を見ると、音羽くんは逃げるようにカウンターの向こうへ行ってしまった。耳がちょっと赤くなってる。
「びっくりしました。音羽くん、絵、上手いんですね」
「まぁ昔から、手先だけは器用かもね。手先だけはね」
「うるさい。だまれ」
言い返す力が弱い。音羽くん、照れてるみたい。ふたつ年上の男の子だけど、なんだかかわいいと思ってしまった。
カランとベルが鳴る。
「いらっしゃいませ!」
さくらさんと一緒に声を出す。
「あら、芽衣ちゃん、こんにちは」
「こんにちは」
いつもクロワッサンを買いにくるおばさん、中村さんだ。私の名前を覚えてくれてる。
「さくらさん、クロワッサン焼けた?」
「ええ。焼けてますよ!」
さくらさんが取りに行く。
「五つちょうだいね」
おばさんが私に笑いかけて言う。
「はい。五つですね」
いつのまにか私もこんなふうに、お客さんと会話できるようになっていた。
さくらさんの焼いたパンを並べたり、お客さんが買ったパンを袋に入れたりしていたら、また時間が過ぎていた。私はあわててさくらさんに言う。
「すみません。私、もう帰らなきゃ」
「ああ、ごめん。遅くなっちゃったね。手伝ってくれてありがとう」
私はエプロンをはずすと、レジの前にお金を置いた。
「あの、今日は私のおこづかいでパンを買って帰ります」
「あら、いいの?」
「お母さんとお父さんに、買ってあげたいんです」
先週、さくらさんにもらったパンを、お母さんたちにも食べてもらった。そして私が、パン屋さんでお手伝いさせてもらったことも話した。
ふたりとも美味しいと言ってくれて、なんだか私までうれしくなった。
私はクリームパンとあんぱんとカレーパンをトレーに取って、レジの前に差し出した。
「ありがとうございます」
さくらさんがそれを袋に入れてくれる。
「また来週も、お店やってるから」
「はい」
「来れたら、おいで」
私はさくらさんの前で笑ってうなずく。
パンを持って外へ出た。空はオレンジ色に染まっていた。
いけない、遅くなっちゃった。
早足で帰ろうとしたら、私の隣に誰かが並んだ。
「さくらさんに、買い物頼まれた」
「え?」
私の隣を歩いているのは、音羽くんだった。音羽くんは前を見たまま、面倒くさそうに言う。
「坂の下まで一緒に行く」
「……うん」
私は肩に掛けたトートバッグをぎゅっとにぎる。
背の高い音羽くんと、坂道を歩く。夕陽が私たちの背中を照らしていて、道の先にふたりの長い影が伸びる。
そのとき前から歩いてくる人影に気がついた。私は咄嗟にマスクで顔を覆って、下を向く。おしゃべりしながら向かってくるふたりの女の子は、私の中学校の制服を着ていた。
身体がこわばる。背中に嫌な汗がにじむ。手の震えを隠すために、私はもっと強くバッグをにぎる。
女の子たちの笑い声が近づいてきた。私のことを笑っているような気がして、心臓の音が激しくなる。
怖い。もう嫌だ。いますぐ走って逃げ出したい。
「なにそれ、マジでぇ?」
「ね? ヤバいっしょ?」
笑い声がすぐ近くで聞こえたあと、女の子たちの声は遠ざかった。私はうつむいたまま、歩き続ける。
「……大丈夫だよ」
そんな私に、音羽くんの声が聞こえた。
「誰も、見てなかったから」
うつむいたまま、深く息をはく。
「……うん」
聞こえないほど小さな声で答えたら、私の震える手を、音羽くんがにぎりしめた。
「家まで送ってやる。だからお前はずっと下向いてろ」
「え……」
ほんの少し顔を上げたら、音羽くんが私を見て、ちょっとだけ笑った。
「みなみ町だろ、お前んち。あのへん、だいたいわかるから」
「……うん」
私はまた下を向いた。音羽くんが私の手を引いて歩き出す。
こんなことして歩いていたら、逆に目立ってしまいそうだけど……でもひとりで帰る勇気もなかった。
「……ごめんなさい」
マスクの中でつぶやく。
「謝るなよ」
音羽くんのかすれるような声が聞こえる。
「お前はなにも、悪いことしてないんだから」
涙が、出てきそうだった。
友達に無視されてしまったのも。
教室に居づらくなったのも。
学校に行けなくなったのも。
ひとりで歩くのが怖くなってしまったのも。
全部自分が悪いと思っていたから。
自分の足元だけを見つめて、音羽くんに手を引かれて歩く。視界にちらりと中学の制服が映って、すぐに視線をそらす。それでも誰かの笑い声は聞こえてきて、耳を覆いたくなる。
そのたびに音羽くんは、私の手をぎゅっとにぎってくれた。私が不安になる瞬間を、音羽くんはわかっていた。
なんとか家まで着くと、音羽くんの手が私から離れた。
「じゃあ」
目と目が合った音羽くんに、私はなにも言うことができなかった。なにか口に出したら、涙も一緒にあふれてしまいそうだったから。
今来た道を、音羽くんがひとりで帰って行く。音羽くんの背中は、きれいなオレンジ色に染まっていた。
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