6月6日(水) 曇り 2
詩織さんは近所に住む、音羽くんより六歳年上のお姉さん。高校を卒業してからずっと、東京で暮らしているのだという。
「はい。しおちゃんは、いつもチョココロネだったよね」
さくらさんがそう言って、詩織さんにパンを渡す。
「うーん、懐かしい。ここのチョココロネって、最初から最後までチョコがぎっしりつまってるから好き」
詩織さんが嬉しそうな顔をする。
「音くん、おいくら?」
レジのところに立っていた音羽くんに、詩織さんが聞く。
「ああ、しおちゃん。今日はお金いらないよ?」
「そんなわけにはいかないです。音くん、いくら?」
詩織さんの声に、音羽くんがぼそっと答える。
「百三十円です」
詩織さんはお財布からお金を出すと、音羽くんの手のひらに、そっとのせた。
「ありがとうございます」
音羽くんが手のひらをぎゅっとにぎる。詩織さんはそれを見て、またやさしく微笑む。
「しおちゃん、いつまでこっちにいるの?」
さくらさんが聞いた。
「一週間くらいかな。また来週の水曜日も来ますね」
詩織さんはそう言うと、音羽くんに振り返った。
「じゃあ、またね。音くん」
小さく手を振って、詩織さんが出ていく。音羽くんは手のひらをにぎったまま、ぼんやりとしている。
「今日の音羽くん……なんかヘン」
思わずつぶやいてしまった私の横で、さくらさんがささやいてくる。
「しおちゃんは、音羽の初恋のひとだから」
「えっ、そうなんですか!?」
音羽くんがあわててこっちを向く。
「は? なに勝手なこと言ってんだよ!」
「あら、違ったかしら?」
「違うに決まってんだろ! 勝手に話つくるな!」
音羽くんはカウンターの上にお金をばんっと叩きつけると、教科書を抱えて、裏口から出ていってしまった。
「あ、行っちゃった……」
「顔、真っ赤」
さくらさんがふふっと笑う。
「我が息子ながら、ほんっと、わかりやすい子」
さくらさんの声を聞きながら、私は思う。
そうか……音羽くんは、ああいうひとが、好きなんだ。
その日もパンを三個買って、お店を出た。
「また来週も、来れたら来てね」
「はい」
さくらさんに手を振って別れる。お店の外は、じっとりとした風が吹いていた。
もうすぐ長い雨の季節がやってくる。
坂道をひとりで歩きながら、私は気がついた。
坂のちょうど真ん中あたりにある、小さな公園。古い滑り台と、ベンチが置いてあるだけで、いつもひっそりと静まり返っている。周りは住宅街なのに、この公園で遊んでいる子どもを見かけたこともない。
その寂れた公園のベンチに、女のひとがぽつんと座っていた。一瞬通り過ぎようとした足を止め、私は公園の中に入った。
「あの……」
恐る恐る声をかける。するとそのひとは私に気づき、あかるい声で言った。
「ああ、さっきパン屋さんにいた子……えっと、芽衣ちゃん!」
「はい。そうです」
詩織さんがにこっと私に笑いかける。そしてそのままの顔で私に聞く。
「芽衣ちゃんは、音くんの彼女なのかな?」
「えっ、ち、違います!」
「違うの? なんだぁ、つまんない。あのちっちゃかった音くんにも、とうとう彼女ができたのかぁなんて、しみじみ考えてたのに。残念」
詩織さんはそう言って、くすくすと笑う。
詩織さんの言ってること、どこまで本気なのか、よくわからない。
「あの……」
「うん? なあに?」
「チョココロネ、好きなんですね?」
自分で言ってあきれてしまった。そんなことを聞きたくて、わざわざ声をかけたんじゃない。
だけど詩織さんは、私の言葉ににっこり答える。
「うん、好きだよ。チョココロネ。小さい頃、買い物帰りに必ずあのパン屋さんに寄って、母が私に買ってくれたの」
私は少し、不思議に思った。だってお母さんとは、上手くいってなかったって言ってたはず。
詩織さんはそんなことを思った私に気づいたのか、自分の隣を手のひらでぽんぽんっと叩いて、私にベンチに座るよう合図した。私は言われた通りに、詩織さんの隣に座る。詩織さんは、なんだかとてもいい匂いがした。
「私の母はね、私のやること、私の将来のこと、全部自分の思い通りにしようとしてた。私を自分の所有物とでも、思ってたんだろうね」
私は隣にいる詩織さんを見る。
「小さい頃は、なんでも母の言う通りにやってて、仲良し母子と思われてたみたいだけど。だんだんおかしいって、私が思い始めて……高校生になった頃はね、家に帰りたくなかった。だから学校帰りにさくらさんのお店に寄っては、時間つぶさせてもらってた」
詩織さんはそこでふふっと笑う。
「今思えば、いい迷惑。営業妨害だよね」
私は小さく首を振る。
「私も……さくらさんには迷惑かけてばかりなので」
詩織さんは私の顔を見て、小さく微笑む。
「さくらさんはすっごくいいひと。ご主人もいいひとだった。私はあのひとたちに救われた」
詩織さんがそう言って、どんよりと曇った空を見上げる。
「母とは最期まで上手くいかなかったけど。でもあの頃、私が私でいられたのは、あの場所があったから」
隣を向くと、詩織さんも私を見た。
「今日チョココロネ食べたら懐かしくなっちゃって、もう少しここにいたいって思っちゃった」
詩織さんがいたずらっぽく笑う。
「でもそれは無理。来週には東京に帰らなきゃ。仕事あるし。ひとり残った父のことは、ちょっと心配だけどね」
詩織さんは両手を空に伸ばし、「うーん」と伸びをする。私はそんな詩織さんの横顔を見つめながら思う。
来週には東京に帰ってしまう詩織さん。音羽くんはそのことを、どう思っているんだろう。
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