契約破り・Ⅲ
部隊に追いつくと、イチは膝に手を当ててうつむいた。乱れた呼吸を整えようと、荒く息をつくイチに、中国人の
「朱良さんは……」
肺に酸素を送るので精一杯だったイチの代わりに、肩に乗っているバーチャスが答えた。
「通路を塞いだ。だが姉御なら、猫屋敷をなんとかして必ず合流するはずだ」
そうか、と中国人の
「おい、あれは契約者じゃないな。お前らの仲間だろ! 一体どうなってやがる! あいつは裏切ったのか!」
「私が知るか! ここまで来て今さら狼狽えるな! 出撃前に自分たちで充分などと息巻いていたのはどいつだ!」
「はっきりしただろうが! お前ら
「やめろ!」とイチが叫んだ。今にも殴りかかろうとしたタスクフォース0の隊員は拳を振り上げたまま固まる。
「あんたら戦争を止めるために来たんだろ。仲間割れしてどうする」
隊員は舌打ちをすると、中国人の
「
イチは差し出された手を握る。固いグローブの感触がした。
「私は
「おそらくこの先にはゴールドフィッシュ、ブラッドサマー、雷電喜之介が待っているだろう。朱良さんがいなくなった今、この三人の契約者すべてとの戦闘を経験したのは君しかいない。我々がどう戦うべきか教授願いたい」
全員がじっとイチを見つめていた。イチは何か気圧されて口ごもった。
「いや、まあ、そんなたいしたことはしてないけど……とにかく真っ先に叩くべきなのはゴールドフィッシュだ。他の二人の口ぶりからするとあいつが指揮をとってるみたいだし、幻惑魔法でこっちが分断されるのも絶対に避けたいから。あと、ブラッドサマーの戦闘能力は桁違いだ。あいつに銃は効かないから、魔擬使いか俺で当たらないと……」
なるほど、とうなずき合う男たち。アランはそばにいた隊員の胸を叩くと、何事か耳打ちして指示を出した。
「雷電喜之介は……あいつ自身の能力についてはほとんどわからない。ごめん……」
「いや」紹雄は手を振った。「私は直接戦ったことがあるが、死霊魔法以外の奴の魔法はそこまでではない。
それからイチたちは細かい戦術の打ち合わせに入った。大まかな作戦が立てられ、いくつもの対策が立てられたが、どれも通用するかはわからなかったし、何より全員の息を合わせなければ成功しない。彼らはお互いの仲間以外は全員初対面だった。練習などしている時間はない。それでもやらねばならなかった。ここで契約者を捕らえなければ、彼らは本懐を達成し、この国で邪神が甦る。
イチも含め、数百年前に封印された邪神を直接目にした者などこの場にはいない。それでも、それがどのような結果を引き起こし、この世に何をもたらすかについてはよく知っていた。
それだけはなんとしても阻まねばならない。
「待ってろよディラン……」
話し合いを終えたイチたちは立ち上がると、契約者たちの待つ遺跡の奥へと歩き始めた。
彼らは真っ暗な通路をひたすら進む。
今まで彼らの間を流れていた不和の空気は今や消え失せ、ただ一つの目的だけを共有し結束している。彼らは一言も発さず、ブーツの足音とタスクフォース0の装備が触れ合う金属音だけが響いていた。もはや無駄な言葉など必要なかった。あとはやるべきことをやるだけだ。
やがて通路の奥に、針先ほどの光が輝く。光は徐々に大きくなり、イチたちは通路を抜け、開けた場所に出た。
そこは巨大な広間のようだった。天井は抜けるように高く、円周に彫刻の入った石柱が万年を生きた大木のようにいくつも屹立している。壁や柱はそれ自体が薄く発光していて、重なった淡い光が広場一面に満ちている。そこでイチは、この遺跡がふつうの人間ではなく、太古の魔法使いたちによって建てられたものだと思い至った。
そして契約者はその中央で待ち構えていた。
最後に会ったぼろぼろの姿とは見違えるほどの、綺麗に糊の効いた白いタキシードを再び身にまとっているゴールドフィッシュ。このときを待ちわびたかというように身体を揺らし、ワンピースのスカートをはためかせているブラッドサマー。着物の袖に両手を突っ込んだまま、自分の生み出した
イチたちはめいめいの武器を構えた。
「貴様らを逮捕する。大人しく投降しろ!」ホロサイトをのぞいたままアランが怒鳴る。
「人の作った法で我々を縛るつもりか? なんと愚かしい」
ゴールドフィッシュは呆れたように首を振った。
「それにどうやって我々を裁くというのだ。誤った神を信仰する君たちの法典に、我々に関する記述があるというのかね。我々はここに我らが神を復活させる。正しい世界の平和と秩序のためにな。世界の警察気取りで戦争を仕掛ける君たちがそれを止めようと無駄な努力をするのは当然だろうが、ある意味皮肉とも言える。まさに喜劇だ」
イチは気づく。ゴールドフィッシュは時間を稼いでいる。だが、一体なんのために?
そのとき、イチの鼻が覚えのある匂いを嗅ぎつける。果物の甘い匂いと焦げ臭さが混ざりあったような奇妙な異臭。イチは叫んだ。
「紹雄! 魔擬で風を起こせ! 幻惑魔法だ!」
とっさに紹雄は魔擬を発動する。嵐のような強風があたりを吹き荒れ、ゴールドフィッシュが広間に充満させていた無色透明の煙をはるか天井の方まで吹き飛ばした。
「ばれちゃってるじゃん」ブラッドサマーはゴールドフィッシュを肘でつついた。
「不本意だが実力で排除するしかあるまい。君の得意分野だろう」
ゴールドフィッシュがそう言った瞬間、砂煙を巻き上げて三人の契約者は一斉に飛び出した。
「作戦どおりに行くぞ!」
イチの叫びにうなずき、
この国の命運を決するための戦いが始まった。
◇
「
ルカの魔擬によって空気中の水分が凝縮凍結されてできた氷槍が次々と朱良目がけて襲いかかる。朱良は
「邪魔をしないでもらいたい、朱良先生!」
「大層な口をきくようになったじゃねえか、ええ?」
とん、と地を蹴って空中を舞い、朱良は追撃してきたルカの氷槍を避ける。
「今のお前はお前じゃねえ。幻惑魔法にかかってるな」
「私は幻惑などされていない! これは純粋な私の意志だ!」
「かかってる奴はみんなそう言うな」
二人の魔擬はときにぶつかり合い、ときに相手をそれ、複雑に絡み合う。お互いの手の内を知り尽くしているからこそ、使用する魔擬、体捌き、位置取り、高度な戦術と先読みが生まれる。それは一種の有限確定ゲームだった。
「邪神を復活させては本末転倒だということは、あなたも理解しているはずだ!」
「それがお前の本音か? 違うだろ」
本人の言ったとおり、ゴールドフィッシュの幻惑魔法は人間を意のままに操れるわけではない。その限界とは、つまりかかった者の感情の限界。ルカが心のどこかで感じ、想像してしまった行動を極限まで増大化させ、ルカを駆り立てる。今のルカが口にする言葉は嘘であり、真実でもある。
「本音を吐けよ。お前はイチを救いたいんだ。あいつがこれ以上戦えないように、ウォーロックを取り上げようとしている。根底が甘いのは変わらねえが、お前にしちゃずいぶん強引じゃねえか」
「……あなたは!」ルカは光弾をその手に宿したまま、朱良の顔面に叩き込む。朱良は寸前でそれを受け止めた。高出力のエネルギーは二人の顔の間でじりじりと燃えたぎる。
「あなたは目的のためなら手段を選ばない! 数億人を救うためなら、数百人を犠牲にしてきた! イチの意志を無視して
「……ああ、お前の言うとおりだな。私はモアジブで罪のない家族の息子を見殺しにしようとした。あのディランってガキも助けようとは微塵も思ってなかった。死にかけてたイチを助けたのも、戦えそうな奴だったからでそれ以上の理由はなかった……だけどな!」
朱良はルカを打ち払う。ルカの手から離れた光弾は壁に当たって大きく爆発した。
「あいつを見てると思い出す。まだ綺麗事を信じてた頃の自分を……」
朱良は視界の片隅にちらりと意識を流す。そこには
「……いつか打ち砕かれるとわかっていても、それでもあの頃の私と同じ綺麗事を信じ続けてるあいつに、たった一度でいいから報われる瞬間を与えてやりたい」
視界の隅にはイチに向けられたブラッドサマーの歪んだ笑顔。
ルカが魔擬を放つ。数発の
「イチはもう充分救ってきた。私やディランや、大勢の人を……今度は彼自身が救われなきゃいけない……!」
「それじゃあ駄目なんだよ、あいつは。嘘でもいいから自分が戦争を止めたって思わないと、あいつは一生壊れたままだ」
「そんなもの、なんの慰めにもならない! 彼に必要なのは治療と休息だ! あなたはもう一度イチを利用しようと目論んでいるだけだ!」
「そうだな。確かに私はイチを利用してる。だがな、なんでか知らねえが少しだけ信じてみたい気もしてる。あいつなら綺麗事を綺麗事のまま通して、誰も傷つけずにこの世の災厄何もかもを終わらせてくれるんじゃないかって……」
「現実逃避だ! あなたは自分が捨てたものをイチに押しつけているだけだ!」
ブラッドサマーの拳がイチの腹に入る。朱良は目を見開く。
ルカは朱良の意識がそれたのを見てとり、その懐に飛び込もうと地を蹴った。それが朱良の張った罠だとは気づかず。
「私は……あなたみたいになりたかった! 誰かに罵られても構わない、誰かに憎まれても構わない。世界の平和を取り戻すためなら、たとえ自分の命であろうと犠牲にできるあなたみたいな
速度を優先し、直線的に突っ込んでくるルカ。朱良はゆらりと群青のコートをはためかせ身をひるがえした。
「なるほど……私は教育を間違えたみてえだ」
ルカの意識外からその背後に回る。朱良はルカの後頭部を握り潰すようにつかんだ。
「こんな大人になるなって教えたかったんだけどな」
黄緑色の霧へと視覚化されたゴールドフィッシュの幻惑魔法がルカの身体から吹き出す。
朱良がその頭から手を離すと、その急激な変化に耐えきれずルカはどさりとその場に膝をついた。
ルカの身に満ちていた先程までの殺意にも似た戦闘の意志はもはや欠片もない。幻惑魔法によって生み出された激情はすでに消え去り、後悔の怖気がルカを襲っていた。
「目が覚めたか……」
ルカは地に膝をついたまま「……すみません」と小さな声で呟いた。
「お前の大事な大事なヤナギはどうした?」
「……どこかに捕まって…………朱良先生、すみません。あれは私の本心ではない」
「もういい」朱良は手を振った。「若者の感情の高ぶりを受け止めるのが年長者の務めってやつだ。さっさと行って、イチたちに加勢するぞ」
朱良はルカの腕をつかんで無理矢理立たせた。が、ルカは目を伏せたままだった。
「しかし……ウォーロックの復活に関して、私の危惧は間違っていないはず。あの魔剣をあそこに近づけることは危険だ。それはあなたが相手でも譲れない」
「安心しろ。約束したからな」
「約束……?」
「ウォーロックが復活したら、私が殺す。馬鹿やった若者のケツを拭くのもまた年長者の務めだ」
「いくら朱良先生でも……無茶だ」
「何言ってんだ。お前も手伝うんだぞ、
朱良はにやりと笑うと、ルカの肩を拳で押した。それはスキンシップと呼ぶにはいささか手荒だったが、ルカは朱良につられるようにして微笑んだ。
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