集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約 第三条

 戻ってきたイチがテントに入ると、すでにサーリャの姿はなかった。ベッドに横たわっていたディランは驚いたような表情を浮かべ、一ミリ秒ほど笑顔になったが、それを無理矢理しかめっ面に戻し、可愛くない口を叩いた。


「なんだ生きてたのかよ」

「ウォーロックと同じこと言ってるぞ、お前」


 こんなのと一緒にするな、とディランとウォーロックが同時に叫んだ。


 イチは笑いながら、ディランのベッドにぼすんと腰かけた。


「よかったな。サーリャも生きてて」


 イチがそう言うと「うん……」と意外にも殊勝にディランは頷いた。


「……アル・アリは死んだ。『神に導かれし戦士たち』は指導者を失って、たぶんすぐに崩壊するだろう。お前はこれからどうするつもりだ?」

「急に言われてもわかんないよ、そんなの……」


 ディランはシーツの端を握りしめた。


「……俺があの砂嵐の中で何を見たと思う?」


 イチの質問に、ディランはきょとんとした顔を浮かべた。


「俺の育ての親はアメリカの空爆で死んだ。あの日からずっと俺は戦った。戦って、戦って、戦い続けた。ときどき思い出したように疑問が浮かぶ。俺はなんのために戦ってるのか? 戦いを止めるために戦ってるのか? その先に何があるっていうんだ? いまだにわからない……わからないけど……それでも、生きるしかない」

「……何が言いたいんだよ」


 イチは所在なさげに笑い、首を傾けた。


「……さあ? お前が生きててよかったってことかな」


 この野郎、とイチは叫び、突然ディランの頭を抱え込んでぐしゃぐしゃにした。


「うわ! やめろバカイチ! 話すの下手かよお前!」

「ああ、そうだよ! 馬鹿だから口下手なんだよ!」


 イチの腕を必死に振り払おうとしながらもディランは笑っていた。イチも笑っていた。お互いの過去を吹き飛ばすように。イチは思った。誰かを安心させるためじゃなく、本当に心の底から笑ったのはいつぶりだろうか。

 笑いながら二人はベッドの上で取っ組み合った。イチはディランを振り回そうと腰を持って、ディランはそんなイチの背中をばしばしと叩いたが、お互い力が入らないので、幼犬のじゃれ合いのようだった。


 そのとき、からんという金属音が響いて、二人の動きが止まる。

 驚いて食事のトレイを取り落としたサーリャがそこに立っていた。


 あう、とディランは何か言おうとして変な声を出した。


「……ごめんね。二人がそういう仲だって知らなくって……」

「違うサーリャ。すごい誤解してると思う」

「いいの! わかってるから! 私、すっごいわかってるから!」


 わかってるからー、とサーリャは赤面しながらテントを飛び出していった。


「ちょっと話を聞いてくれ! 絶対納得させる!」とイチは追いかけようとしたが、サーリャの姿はすでに消えていた。のばした手のやり場に困り、イチはそのまま自分の頭を掻いてディランを振り返った。

「……バカイチ」

「今の俺のせいか!? しょうがないだろ……それよりもディラン」

「もしかして話変えようとしてる? こんな状況の後で? バカイチ!」

「誤解はいずれ解ける! 同じ人間なんだから!」

「うるさい! …………それで、そこまでして何言いたいわけ」


 ディランはじっとりとした目つきで睨んだ。怯みつつもイチは答える。


「……いや、アンマールにお礼言っておけよ、と思って」

「なんであんな奴に」

「砂嵐の中で俺とお前を見つけて、助けてくれたんだぞ。そんなこと普通できないだろ」


 ディランは何も答えず、いきなりひるがえって真っ白いシーツを頭からかぶるとベッドの上で丸まった。


「ごはん!」

「ああ?」

「お腹減った! ごはん、早く!」


 ごはんごはんとディランは子供のようにシーツの中でわめき続ける。いや、子供なのだ。


「今もらってくるから大人しくしとけよ。いいな」

「ごーはーんー!」


 イチは苦笑いを浮かべ、地面にこぼれていたスープの具をカップにかき集め、新しい食事をもらうためテントを出た。


 食事を無駄にしたことをアルゴルに謝らなくてはならない。サーリャの誤解も早く解くべきだろう。やるべきことはさっさとすましておかないと。


 すぐにエデンアドンを後にするのだから。



 数日間を一日中ストレッチや運動で過ごして、イチはだいぶ調子が戻ってきたのを感じた。

 身体も軽く、筋力も問題ない。後は勘が戻るかどうか。


 イチはエデンアドンのキャンプ地を一人離れ、傾斜がかった岩場にやって来た。

 巨岩の一つに登ると、ウォーロックをゆっくりと抜く。

 自らの意識がウォーロックと直結し、心が地獄とつながる。一瞬、心臓を鷲掴みにされたような恐怖を感じた。背筋を冷たい汗が流れる。ウォーロックを抜いてこんなに動揺するのは久しぶりだった。あの砂嵐の中で見たものは、思っていた以上に心に爪痕を残していたようだ。


使


 イチは恐怖を押さえ込み、ウォーロックを強く握った。


 ばしりと跳躍し、遠く離れた別の岩へと飛び移る。何度も何度も、不安定な足場で身体のバランスをたもちながら、バッタのように岩場を飛び跳ねた。


 最初はよろめいていたが、徐々に勘がもどってくる。強化された身体能力に感覚が慣れ始め、暴れる身体を制御する術を思い出す。


 イチは宙で一回転してから地面に着地すると、振り返りざまにウォーロックを振り抜いて目の前の巨岩に衝撃波を放った。

 腹の底に響くような音がして、巨岩は八つに割れ、ずるずると崩れていった。


 ふうう、と長い息を吐き、イチはウォーロックを鞘に戻した。



 エデンアドンに戻ると、ディランの姿がなかった。また年長者の子供と喧嘩でもして、アルゴルに怒られているのかと思って見に行ったが、彼のところにはいなかった。すでに二回はそんなことが起きている。アルゴルは諭すように怒るので、ディランはとても苦手そうにしていた。

 アンマールに尋ねても知らないという。


「僕はあの子に避けられてるから……当たり前だけどさ」


 当たり前だ、と言っているくせにどこか寂しそうだった。

 アンマールは基地を出たときからつねに持ち歩いているバッグを抱きしめていた。


「なあ、アンマール。ずっと気になってたけど、そのバッグの中身ってなんなんだ?」


 イチが指さすと、アンマールはちょっと迷ってから答えた。


「……バイオリンだ」

「バイオリン? アンマールが弾くのか?」


 言われてみればしっくりくる。アンマールは兵士というより音楽の教師の方がお似合いに思えた。


「……弾かないよ」


 アンマールはそう言うと、バッグを大事そうに胸に抱きながら足早に歩き去っていった。イチは首をひねった。


 それからまた一人でバラック群をぶらついてディランを探す。子供たちが走り回り、女性たちは小屋の軒先で洗濯をしている。男たちはエデンアドンの人間と一緒に仕事を探すため、近くの街へ行ったようだ。

 ディランは一向に見つからず、そろそろ嫌な予感がしてくると、サーリャを見つけた。


「ああ、サーリャ。ディランを見てないか?」


 初対面の誤解はとっくに解いてあるので、サーリャも今はふつうに接してくれる。最初はイチが近づくと顔を赤らめて逃げ出すので、誤解を解くのに苦労した。


「ディラン? あのテントのとこにいますよ」


 サーリャは近くにある小さなモノポールテントを指さした。

 イチはほっと安堵した。エデンアドンを逃げ出したのかと思ったのだが、杞憂だったらしい。


「ありがとう!」とイチはその嬉しさのまま、テントに向かって駆け出した。

「あっ……今は……!」


 サーリャの言葉は耳に届かず、イチはがばりと入口を開けて中に入った。


「なあ、ディラン、ちょっと――」


 イチは言葉を失った。テントの床には色鮮やかなサテン生地の衣装とベールが綺麗に畳んで置かれていて、そのそばには普段使いのシャツとズボンが抜け殻のようにぐしゃぐしゃになっている。そしてその服の持ち主であるディランは自分の下着を脱いでいるところだった。突然の闖入者に呆然と片足を上げたままの姿勢で固まっている。


 イチは、それを見た。

 見た上で、呟いた。

「…………女、の子だ」


 ディランの顔がみるみるうちに真っ赤に染まった。


「この……バカイチ!」


 怒鳴り声に追い出されるようにして、イチはテントから飛び出した。


「ご、ごめん! まさか着替えてるとは……」

「いいから閉めろ!」


 イチはあわててテントの入口を閉めた。


「いや、本当にごめん……」

「……もしかしてとは思ってたけど、本当に俺のこと男だと思ってたんだな……男だって……」

「それはだって……お前の言動が……なあ」

「なあ、じゃないだろ!」


 ディランはテントの入口の隙間から顔だけ出すと、「絶交だ!」と叫んで再びテントの中に引っ込んだ。

 完全に予想外の方向から不意打ちを食らって、イチの頭はオーバーヒートしていた。ディランが男じゃない。男じゃないということはつまり……

 今までの出来事を思い返し、イチは頭を抱えた。


「……でも、子供だしいいのか?」


 ウォーロックに言われ、イチは再びうめいた。


「あの……しょうがないと思いますよ。ディランはけっこう乱暴な口をききますし」


 うろたえまくっている砂漠の停戦者デザートピジョンに、見かねたサーリャが慰めの言葉を投げかけた。


「男の子相手でも平気で喧嘩するから……」

「いや、それでも……だってずっと一緒にいたんだぞ……大体、ディランは何で服なんか脱いでたんだ」

「ああ、それは」とサーリャがわざと明るい声を出して、話題を変えようとした。

「今夜お祭りイードをやるっていうから、ジェリタ族がお祭りのときに着る服を貸してあげたんです。私が持ってたやつを」

「あれか……」とイチはテントに置かれていたサテン生地の衣装を思い出した。

「あの……ごめんなさい。私がディランに、着たらって言ったんです」

「いや、いきなり入った俺が悪かったんだ。というか、サーリャにはお礼を言わないと。大事な服をディランに貸してくれてありがとう」


 イチは自分の腰あたりにあるサーリャの頭を撫でた。


 だが、何か視線を感じ、はっと振り向くと、着替えを終えたディランがじっとこちらを見つめていた。


「……仲よくなったみたいだな」


 イチは何か言おうと思ったが、もはや言葉が口から出てこず、無言でぶんぶんと両腕を振った。


 ディランが着ている民族衣装は鮮やかな黄色のサテン生地でできたローブのようなものだった。足まで届く布地には絹糸で刺繍が入れられており、軽やかなベールが頭から顔をおおっている。サーリャの家で代々伝わってきたであろう、手間をかけて作られた衣装だった。


「こうして見ると、たしかに女の子にしか見えないのにな……」

「ああん?」とディランはベール越しにイチを睨みつけた。

「いや、その、すごく似合ってるというか……」

 と言葉に窮するイチの耳元にサーリャがあわてて「かわいいかわいい」と囁いた。

「……そう、かわいい」


 イチがそう言うと一瞬、西部劇の決闘のような緊張感が二人の間に流れた。


「…………そうかー?」


 ディランは顔を赤らめると、照れたように自分の頭を掻いた。


「ああ、かわいいかわいい」

「やめろってー、そんなこと言ってもな、さっきのことは許さないからな」


 完全に許している顔だった。

 なるほど、とイチは思った。また一つ賢くなってしまった。


 実際、ジェリタ族の民族衣装はディランによく似合っていた。祝い事に際しておめかしする子供というのは時代や国境を越えた微笑ましさがある。


 向こうでアンマールが歩いているのを見つけたイチは大声を上げて彼を呼んだ。


「おーい、アンマール! 見てみろよ! ディランがすごいことになってるぞ」


 アンマールはディランの姿に一瞬迷ったあと、重たい足でこちらに近づいてきた。

 イチはディランの脇に手を突っ込んで、アンマールの目の前に持ち上げた。

「下ろせよバカイチ!」と怒鳴るものの、暴れると衣装が汚れるのでディランはされるがままになっている。アンマールはディランから顔をそらした。


「見ろよ。これがあのディランだぞ」

「あのってなんだよ!」

「似合ってるだろ?」


 そう尋ねられたアンマールは、ディランを直視しないよう目をそらしたまま「そうだね……」と答えた。


 そこで会話が止まり、沈黙が流れた。


「……なあ」とディランが自分の頬を掻きながら、おずおずと口を開いた。

「ありがとう、アンマール…………助けてくれて」


 アンマールはそう言われた瞬間、自分の顔を両手で押さえて走り出した。イチはあわてて「ちょっとごめん」とディランを下ろすと、アンマールのあとを追いかけた。


 人目の届かないバラック群の裏に回ったアンマールは膝をついて、自分の両手に顔を埋めていた。その背中は大きく震えている。イチはアンマールが泣いているのだと思って、励ましの言葉をかけようと後ろからそっと近づいた。


 その瞬間、アンマールは地面に嘔吐した。びくんびくんと怖気に肩を震わせながら、アンマールは四つん這いで胃の内容物を吐き出す。びちゃびちゃと黄色い吐瀉物が地に当たる音がした。


「おい、大丈夫か!」イチはアンマールに駆け寄ってその背中を撫でた。

「どうしたんだ? 変なものでも食べたのか?」

「……僕は……あの子に嘘をついたんだ」


 涙でぐしゃぐしゃの顔でアンマールはなんとかそう言った。口の端からよだれと胃液が垂れていたがぬぐうこともせず、ままに垂れ流していた。

「僕もあの場にいたんだ……あそこにいて……僕も一緒に引き金を引いた…………怖かったんだ。やらなければ自分も殺されそうで……」


 イチの手が止まった。


「あの日からずっと夢に出る……血まみれの顔……ジェリタ族の悲鳴が……手が震えてしょうがない……バイオリンを持つこともできない……」


 アンマールは自分の両手を見つめた。今でもそこに血がこびりついているというように、怯えて目を見開く。


「あの子の家も、家族も、故郷も全部僕が奪ったんだ……それなのに僕は家に帰りたいだなんて……自分勝手だ……最低だ…………なあ、教えてくれ。僕はどうしたらいいんだ?」


 振り返ったアンマールの瞳からは大粒の涙がとめどなく流れていた。

 ずっと罪を抱えていたのだ。旅の仲間に加わったときから、ずっとアンマールは自分の罪の重さに一人耐えていた。


「……アンマールは幸運だ」


 イチは膝をついて、汚物にまみれたアンマールの手をにぎった。


「償う相手がいる。それをディランに話すべきかどうか、俺にはわからない。でも、本当はもう何をするべきか自分ではわかってるはずだ。アンマールは臆病だけど、同じくらい勇敢だ。優しい人間だ。自分の中にいる、その優しい自分に従ってくれ」

「そんな僕はもういない……今の僕は……ただの獣だ」

「じゃあ、どうしてあんな砂嵐の中で俺たちを助けられた? アンマールも見たんだろう? 自分の中の一番悲惨な記憶を。あのときアンマールは一年前のあの日にいたはずだ。現実と見間違えるような、あんな幻の中で、それでも俺たちを助け出した」


 そのとき二人を呼ぶディランの声がして、イチは言葉を切った。


「おーい、イチ! アンマール! どこ行ったー」バラックの向こう側でディランが二人を探している。


「……行ってくれ。あの子に見られたくない」


 アンマールはつらそうに手を振った。

 イチはしばらく迷ったあと、ディランのもとに戻った。

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