出立

 その日の夜、キャンプ地のど真ん中で大きな焚き火が起こされた。


 エデンアドンにいる者全員が集まり、祭りイードの日を祝っていた。いつものパンやシチューよりは手の込んだ料理――肉や野菜を薄焼き卵で包んで焼いたものや、牛肉のケバブ、山羊の乳で作ったプリン――を食べながら、この日のためにとっておいたナツメヤシの蒸留酒を飲み、騒いでいる。ふだん世間から放逐された生活を送っている彼らにとって、今日はそのことを忘れてただ楽しいときを過ごせる数少ない時間だった。


 陽気な髭面の男がかつてこの国で流行った歌謡曲を歌い上げる。大人たちは手を叩いてそれを囃し立て、子供たちはエデンアドンの人間たちが作ってやった綺麗な服を着ていた。


 そこにはディランの姿もいた。同じようにジェリタ族の民族衣装を着たサーリャと楽しそうにプリンを食べていた。アルゴルはそれらの光景を満足気に見ながらパイプをふかしていた。


 遅れてやって来たイチは少し離れたところで膝を抱えて座っているアンマールを見つけた。考え事にふけっているようで、深刻な顔つきで祭りイードを見るわけでもなくうつむいている。


 イチはアンマールに近づき、その肩を叩いた。


祭りイードに加わらないのか?」

「僕にそんな資格はない……僕は……人殺しだ」


 震える声でアンマールは自分の膝に顔を埋めた。

 罪の意識に沈みきったアンマールにかける言葉が思いつかず、イチはただ黙って隣に座った。


 そのとき香ばしい匂いが鼻をつく。パイプを咥えたアルゴルが気配もなく、二人のそばに立っていた。


「今日は祭りイードだ」

「それが?」アンマールは顔を隠したまま、ぶっきらぼうに尋ねた。

「今日という日だけは、敵も味方もいない。家族だろうが、外国人だろうが、『神に導かれし戦士たち』だろうが、みな等しく同胞だ。我々の間に立ちはだかる壁は夏の霞のように消え去る。祭りイードを共に過ごした日から我々は兄弟だ」


 アンマールは何も答えなかった。ただじっと自分の内を見つめていた。


 イチはそばに置いてあったあのバッグを手に持ち、アンマールに差し出した。


「なあアンマール、バイオリンを弾いてくれよ」


 アンマールは黙ってイチを見上げた。


「俺、生で聞いたことないんだ。アンマールが弾いてくれたら、きっとみんなも盛り上がる。ディランだって喜ぶはずだ」


 長い長い沈黙があった。キャンプファイアーの方から大人や子供たちの笑い声が聞こえていた。


「……わかった」


 ようやくアンマールはそう答えると、イチからバッグを受け取った。中から三角形の黒いハードケースを取り出して立ち上がった。


「おい、アンマールが何かやるみたいだぞ!」それに気づいた大人の一人が大声でみんなに知らせた。彼らはアンマールが『神に導かれし戦士たち』の兵士だったことを知らない。故郷を追われたただの若い兄ちゃんだと思っている。


 アンマールがケースから合板の古ぼけたバイオリンを出すと、歓声や口笛が湧いた。丁寧な手つきでアンマールは弓毛に松脂を塗る。その手慣れた様子に、アンマールがかつて長い間練習を続けていたことがわかった。


 大人たちに招かれるまま、アンマールはキャンプファイアーの前に出てくる。

 そしてバイオリンの表板を肩にのせる。演奏が始まることを感じ、場は静まり返った。

 アンマールは弓をそっと弦に近づける。一度、それらが触れ合うと、抜けるような綺麗な高音が夜の空気に響く。


 だが、その手は突如震えだし、アンマールは弓を取り落としてしまった。美しい旋律を期待していた静寂の場に、からんという音がむなしく鳴った。


「ごめん……」小さな声でアンマールは呟いた。


 失望の空気が一瞬流れたが、すぐにアルゴルがそこに割って入った。


「どうやら我々の友は少し緊張してしまっているようだな。彼には及ばないかもしれないが、私が代わりに弾こう」


 いいかな、とアルゴルは気落ちしているアンマールからバイオリンを受け取った。


「アルゴル、本当にできるのー?」と子供の一人が声を上げた。

「任せておけ」


 巨体のアルゴルは悠然とバイオリンを構えると、おぼつかない手で弓を引いた。

 その瞬間、壊滅的な音色があたりを蹂躙した。もはや演奏というよりも一種の破壊活動にも似た異音だった。


 アルゴルはぴたりと手を止めた。一瞬の沈黙のあと、笑い声の渦が巻き起こった。

 全然弾けないじゃないか、と大人が野次を飛ばす。下手くそだよ、と小さな男の子が漏らす。アルゴルは照れたように笑いながら、アンマールにバイオリンを返した。


 楽しい時間が再び戻ってくる。人々は先程のアルゴルの様子を話の種にしながら、また酒や食べ物をつまみ始めた。肩を落として立ち去ろうとしたアンマールに、大人たちが集まって慰めながら白濁した蒸留酒を差し出す。


 ディランもほっとしたような笑顔を浮かべていた。


 イチはそれを見ると、身をひるがえして誰にも気づかれないよう、その場をあとにした。



 いつも自分とディランが寝泊まりしているテントに戻ると、イチは置いてあったウォーロックを腰にさし、自分の荷物をまとめ始めた。


「ああ」


 イチはそう答えながら、寝袋を麻のナップサックの底に詰める。遠くから人々の笑う声が聞こえた。また誰かが面白い冗談を飛ばしたのだろう。



 イチは黙ってアルゴルから貰っておいた干し肉やパン、真水の入った水筒などをナップサックに入れた。オイルライターや、着替えも忘れてはならない。



 イチは手を止めた。

「……そうかもしれない。でも、俺にはこれしか思い浮かばないんだ。それに誰かを苦しめている契約者を放っておくことなんてできない」


「……ほんっとうに馬鹿だな」


 イチは振り返った。民族衣装に身を包んだディランがテントの入口に立っていた。その衣装は薄く輝いていて、ごく小さな光の粒がゆるやかに舞っている。月や星の光すらもかしずかせたディランは純粋に綺麗だった。まるでおとぎ話に出てくるお姫様みたいだな、とイチは場違いなことをぼんやり考えた。


 そんなことをイチが考えているとも知らずに、いつものように乱暴な手つきでディランはぐしゃと自分の頭からベールを剥ぎ取った。


「一人で行っちゃうつもりかよ、バカイチ」


 気づかれていたのだ。自分がすでに本調子であることも、旅の準備をアルゴルと共に進めていたことも。


「ああ」観念してイチはうなずいた。


 ディランは小さな両の拳を握りしめた。肩を震わせ叫んだ。


「俺を守ってくれるんじゃなかったのかよ! 俺が幸せになるまでそばにいてくれるって約束しただろ!」

「……お前や、みんなを守るためなんだ。お願いだからわかってくれ。そばにいれないのは謝る。だけど、絶対に帰って――」


 たん、と地面を蹴り、ディランはイチの腰に抱きついた。その場から動いてはいけない、という風に強く力を込めた。


「……行っちゃ駄目だ。自分で気づいてないだろ。寝てるとき、いっつもうなされてるんだよ。最初に会ったときから苦しそうに、うううって」


 自分のシャツがディランの息でじんわりと湿るのがわかった。いや、これは息なんかじゃない……


「イチはもう戦っちゃ駄目だ……これ以上やったらもう戻れなくなるよ……」


 すぐ真下でディランの頭が震えている。イチはそっと手を触れた。柔らかい髪の毛の感触がした。今までは砂塵にまみれてごわごわだったのに、ここに来て頭を洗ったからだ。


 小さな肩を両手でつかみ、ゆっくりと自分から離した。濡れた瞳でディランが見つめ返した。


「俺がやらなきゃいけないんだ」

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