楽園の最期
イチはナップサックを背負い、一人
月明かりを頼りに、冷えた砂漠を一人進んだ。
少し進むたびに星々を見上げ、自分の進んでいる方向を確認する。砂嵐が存在する地点は、アンマールとアルゴルに聞いてある程度わかっていた。あとはまっすぐ突き進めば、明後日の朝頃には自然と砂嵐にぶつかる。その中に奴らがいる。
いつしか
車のエンジン音が聞こえ、イチはとっさに岩場の陰に身を隠した。エンジン音が通り過ぎていくあたりでそっと顔を出してうかがうと、イチの進行方向からやってきた軍用トラックが三台、隊列を組んで走り去っていくところだった。一瞬見えたその荷台にはところ狭しと兵士たちが乗っていた。全員合わせれば、およそ二個小隊。
その行き先に気づき、イチは息を呑んだ。
即座にウォーロックの柄をにぎり、兵士たちを追いかけ走り出した。
最後尾のトラックの後ろ姿が遠くに見えたが、いかにウォーロックによって脚力が強化されているとはいえども、スピードを出した自動車には追いつけない。
トラックはどんどんと小さくなり、やがて宵闇の向こうに消えていった。
それでもイチはもと来た道を走り続けた。地面を蹴るたびに、破裂したように土が舞い上がる。
そのとき、やまびこのような銃声があたりに響いた。それは何度も何度も鳴り響く。
やがて遠くの地平線で爆発が起き、炎が噴き上がった。
ちくしょう、と漏らし、イチは身体の限界を無視して速度を上げた。
散漫だった銃声が鋭さを増してくる。人々の悲鳴や、怒鳴り声が聞こえてくる。
「やめろおお!」イチは叫びながら跳躍し、ウォーロックを抜き去る。正体不明の兵士たちの一群のそばに着地すると同時に、衝撃波で彼らを吹き飛ばした。
他の兵士たちは即座にイチに銃口を向け、フルオートで発砲する。イチはウォーロックでそれを打ち払ったが、あまりに人数が多すぎる。たったっと何度か跳ねて、兵士たちから距離をとって
バリケードの向こうではアルゴルが重機関銃を手に、大人たちに指示を出していた。武器を持たせ、怯えている子供たちを避難させる。その合間に兵士たちから銃撃を受けると、アルゴルはすぐに重機関銃を振り上げて撃ち返した。
「アルゴルやめろ! これ以上戦うな!」
重機関銃の引き金を引き続けながら、アルゴルは怒鳴り返した。
「馬鹿を言ってくれるな、
くそ、と怒鳴ってイチはそばにあったテントを蹴りつけた。
兵士の一人が発射器を抱え、ロケット推進擲弾を発射する。イチはウォーロックを振るって、それを弾き飛ばした。遠くで爆発が起きる。
兵士たちは見境なくバラックに火を放ち、アサルトライフルを乱射し、ロケットを撃ち込んでくる。略奪が目的とは思えなかった。
あたりは
「やめろ! こっち来るなよ!」ディランの声がして、イチは振り向いた。
離れたところでディランが尻もちをつき、近づいてくる兵士に石を投げつけている。綺麗だったあの衣装はぼろぼろになっていて、土埃で茶色に汚れていた。兵士はうるさそうに飛んできた石を払いのけ、アサルトライフルを構える。
「やめろ!」イチはウォーロックを振りかぶったが、兵士の指はすでに引き金にのびていた。
間に合わない――
その瞬間、近くのバラック小屋を突き破って青い乗用車が飛び出してきた。兵士は驚いて振り返る。乗用車は兵士の身体をはね飛ばし、ディランの前に停まった。運転席から降りてきたのはアンマールだった。アンマールはアサルトライフルを兵士たちに向けて撃ちまくって牽制しながら、ディランのいる車体の陰に回る。イチもあわててそこに飛び込んだ。
「ディラン大丈夫か!」
「イチ……どうして? 行ったんじゃないのかよ」
「お前を守るって言っただろ。アンマールも怪我はないか?」
「ああ……」
アンマールは不思議そうに自分の持っているアサルトライフルを見下ろした。
そのときディランが「サーリャ!」と叫んだ。見ると、アンマールが車で突き破った小屋の後ろでサーリャが腰を抜かしていた。遮蔽物のなくなったサーリャのそばを流れ弾が行き交っている。
真っ先に駆け出したのはアンマールだった。アサルトライフルを抱えたまま、腰を落としサーリャのもとへ走る。
「よせアンマール!」
イチは追いかけようとしたが、銃弾が嵐のように撃ち込まれ、とっさに車体の陰に身を戻した。ウォーロックをにぎり直し、銃撃が途切れた瞬間に再び飛び出し、弾丸を打ち払いながらサーリャのもとに向かう。
先にサーリャのそばに着いたアンマールは少女の身体を抱え上げると、こちらに戻ってくる。兵士たちはアンマールに気づき、銃弾を浴びせる。早くアンマールとサーリャを守らないと……
一発の弾丸がアンマールの肩を貫いた。鮮血が吹き出て、アンマールはよろめいた。
「アンマール!」
まだイチの手は届かない。早く……
動きの鈍ったアンマールを無数の銃弾が襲う。サーリャをかばうように抱え込み、地面に膝をついたアンマールの背中に幾度となく弾丸が食い込んだ。真っ赤な血煙がぶすぶすと花開く。そのたびに、アンマールの身体は引きつったように痙攣した。
「やめろお!」そばにたどり着いたイチはウォーロックを振るう。アンマールの首根っこをつかみ、衝撃波で二人をかばいながら自動車の陰まで引きずった。アンマールは吐血しながらも、サーリャを強く抱きしめて決して離さなかった。
銃弾が撃ち込まれ揺れている車体の陰で、イチはアンマールの強張った手からサーリャを離してやる。サーリャは失神していた。
イチは地面にアンマールを横たえた。
口から垂れた血がシャツの襟元を真っ赤に汚していた。背中の銃痕からどす黒い血がとめどなく流れていた。血溜まりは広がり続け、地面を赤黒く染め上げていた。
もう助からないのだとイチにはわかった。
「アンマール? アンマール?」
ディランは顔を近づけ、必死で呼びかけた。アンマールは震える唇で呟いた。
「あの子は……?」
「サーリャは無事だ! しっかりしろアンマール!」
「ああ、イチ……」アンマールは自分の腕をなんとか持ち上げ自動車を指した。
「頼む……バイオリンを…………最後に……」
イチよりも早く、ディランが車の助手席のドアを開いた。そこから黒いハードケースを取り出すと、中からバイオリンを出してアンマールに渡した。
イチはアンマールの上半身を起こした。
人が死ぬとき、消えた魂のぶんだけ、その身体はわずかに軽くなるのだという。イチはずっとそれは嘘だと思っている。人が死ぬと、その身体は重くなる。地を這う獣でしかない人間がときに気高く優しくなれるのは、魂が人間を浮かび上がらせているからだ。
命の灯火が消えつつあるアンマールの身体も、ずっしりと重たかった。
イチはその顎にバイオリンを差し込んでやる。強張った指にディランが弓を持たせ、優しくにぎらせた。
「ディラン……僕は……」
イチに支えられたアンマールはもつれる舌でディランの名を呼ぶと、何かを言おうとして一瞬ためらった。
「なんだアンマール? どうした?」
ディランはその続きを求め、そっと問いかけた。その瞳は純粋にアンマールだけを見つめていた。
「…………君に」
アンマールはそう言うと、弓を弦に近づけた。その瞬間、アンマールの腕から震えがすっと消え去った。
絶妙な圧力と角度で弓毛が弦と触れ合う。まるでこの瞬間をずっと待っていたかのように、バイオリンは大きく震え、一筋の透明な音色を紡いだ。穏やかな高音が戦場の音を突き抜けて、夜の砂漠に響き渡る。単音はメロディとなり、絡み合い、一丁のバイオリンからあふれ出ているとは思えないほど複雑な調べを編み出す。
バイオリンが独奏するその曲の名をイチは知らない。
知らないが、美しい曲だった。
アンマールの手から生み出された旋律はときに軽やかに、ときに重厚に夜空を走る。一匹のしなやかな鷲のように舞い上がり、気の向くままにしかし美しく飛び回った。
イチもディランも、ただ黙ってそれに耳を傾けていた。目をつむって眠りながら弾いているようなアンマールの姿をじっと見つめていた。
その音色に気がついて、じょじょに銃声が鳴り止む。そしてついに最後の一発となり、今や戦場に響いているのはアンマールのバイオリンの音だけだった。もはやここは戦場ではない。ここにいるのは敵も味方もなく、ただ一人の男の演奏に耳をすましている聴衆だけがいた。
イチに背中を支えられたアンマールは死の淵に立っているのが嘘のように、なめらかに弓を操り続ける。
そして曲は唐突に終わりを告げた。一抹の和音と共に、弓がアンマールの手からこぼれた。
ずるりとバイオリンが肩から滑り落ち、崩れそうになったアンマールの身体をイチはあわてて抱きとめた。バイオリンは頭から地面に激突し、折れた首から数本の弦が先程までの演奏からは想像がつかないほど不格好な音を立てて飛び散った。
最後の力を使い切ったアンマールはひゅうひゅうと断続的に息をついている。
しばらくして銃声が一発、ためらいがちに鳴った。それに追従するように、発砲が何度か続く。やがて銃声は濃密さを増し、殺し合いの音が再び
朦朧とした様子でアンマールは微笑む。
「……ありがとう……ありがとう」
あれは拍手じゃない、という言葉をイチは飲み込んだ。せめて自らの演奏に向けられた万雷の拍手とともに逝かせてやりたかった。
アンマールは聴衆に応え、手をゆっくりと上げた。
その手が一瞬震え、そして地面に落ちた。
イチはアンマールの顔に手をのばし、見開かれたままのまぶたをそっと閉じた。
アンマールはディランに真実を告げなかった。地獄の罪人のように重石を抱えているよりはいっそ責めてもらった方が楽であっただろうに、ディランのことを思って最後まで何も言わなかった。アンマールは一人で罪を償うと決め、最期の瞬間までそれを貫き通し、代わりに一瞬の平和をディランに捧げた。
イチは自動車の車体を思い切り殴った。轟音がして、鉄製のボディが大きくへこんだ。
「……わかっただろ……もう、わかっただろ! 今のでやめられるってわかっただろ! どうしてまだ引き金を引くんだ!」
一度そう叫ぶと、もはや歯止めが効かなかった。イチはウォーロックを手に車の陰から飛び出し、兵士の区別なくそれを振るう。衝撃波が嵐のように吹き荒れ、人だけでなく小屋やトラックごと吹き飛ばす。銃弾は払い落とされ、弾かれた手榴弾は遠くで爆発する。
怒りが具現化した衝動となり、戦場を駆け巡る。イチは命以外のすべてを奪い去った。車を、武器を、家を。
今まで何度も経験したはずのことだった。誰かが死ぬことも、止めたはずの殺し合いが再び始まることも。何度も見てきたはずなのに、今回だけはいよいよ耐えきれなかった。
モアジブで朱良に漏らした言葉が甦る。
……きっと、俺のやってることは無駄なんだ。
その瞬間、イチの両目を光塵が埋め尽くした。
その場にいた者全員が目を覆うほどの強烈な光。それが円を描くように減退して消えると、イチの目の前に一人の女が立っていた。
腰まで届く血のように赤い髪。飢えた魔物のような赤い目。間の抜けたワンピース。
「根無し草刈り取るのに、どんだけ時間かけんのよ」
ブラッドサマー。米軍基地を消滅させた契約者。
考えるよりも先に、ウォーロックを叩きつけていた。
突如戦場のど真ん中に現れたブラッドサマーは楽々とその衝撃波をかわすと、首の骨を鳴らした。
「うーん……どっかで見覚えがあるような、ないような……ヨハネスブルグで会ったっけ?」
「ふざけるな!」
イチは一歩で懐まで潜り込み、ウォーロックを振り回す。旋風に翻弄される木の葉のように、ブラッドサマーはゆらりゆらりとその斬撃を避け続けた。
「ああ、思い出した。君死んでなかったっけ? ちょっとはやれそうになったみたいだけど……
ブラッドサマーのつま先がイチの腹にめりこんだ。呼吸が止まり、一瞬後イチの身体は後ろ向きに吹っ飛んだ。
「まだまだ食指は動きませんなあ。お姉さんはお仕事があるから、ちょっと引っ込んでてね」
そう言うと、ブラッドサマーの身体はふわりと浮き上がった。契約者の配下らしき兵士たちも、
天上から降臨した神の代理人のように、ブラッドサマーは空中で両手を広げた。
「さあ、お片付けの時間だ。
魔法が発動されると、あたりの地面がゆるやかに動き出した。意思を持ったかのように巨大な渦を巻き始め、ブラッドサマーの真下に向かって収束する。蠢動する大地は建物や車などの無機物には一切影響を与えず、人間だけがずるずるとすり鉢状の渦にさらわれ、ブラッドサマーのもとへ集まっていく。
兵士や
自分の足元で、人間たちが蟻のようにひしめきあっているのを見ると、ブラッドサマーは頭を掻いた。
「ま、こんなもんか」
「一体なんのつもりだ!」ウォーロックを何度もブラッドサマーに向けて振るが、足が固定されていては力を込めることができない。弱々しい衝撃波はブラッドサマーに届く前に消えていった。
「まあ、あれだよ。お子様ランチのパセリみたいなもんだね。最後の仕上げに君たちが要るんだって、ゴールドフィッシュがさ」
「生贄にでもするつもりか……この人たちを巻き込むな!」
「つれないこと言わないでよ。パーティーは大勢の方がいい」
「イチ!」というディランの叫びが聞こえた。振り向くと、背後から砂地に捕らわれたディランが流されてくる。子供のディランはイチよりも強く
その手の平に向けて、イチは右手をのばした。
だが、手は届かなかった。指先が一瞬触れ合い、そして離れる。
ディランはそのまま渦の中心へと引きずり込まれていった。
「ディラン!」
じゃ、とブラッドサマーは笑顔で手を振った。
「
その瞬間、空間が歪曲され、あたりにいた人間たちはブラッドサマーの魔法に巻き込まれた。
周囲の景色が壊れたビデオテープのように歪んで消えて、真っ白い砂嵐に変わる。
イチは自分の足をつかんでいた地面が消え、それどころか自分の身体がばらばらに細分化されていることに気がついた。今やこの身体はイチであってイチではない。概念や思考といった、そういう抽象的なものに変換され、この空間を埋め尽くしているホワイトノイズと一体化している。
だが、右手にだけ身体的な実感があった。手の平と五本の指にウォーロックの柄を感じる。渾身の力でその右手を振り抜いた。
魔剣の衝撃が異空間を切り裂いた。穴の空いた宇宙船から空気が逃げていくように、イチという人間の成分がその裂け目から弾き出される。同時にイチの身体は再構築され、気がついたときには空中に放り出されていた。
一瞬の浮遊感。それから風を切る長い落下のあと、どさりと砂地に落ちる。
イチが倒れているのは真っ暗な砂漠の真ん中だった。あたりには星の明かり以外には何も見えない。耳が痛くなるような静けさと、埃っぽい砂の匂い。孤独がイチを襲う。一体ここはどこなのか……彼らはどこに連れ去られたのか……
そのとき、ここにいるのが自分一人ではないことにイチは気がつくことになる。
爆音とともに土砂を吹き飛ばし、地面から巨大な竜が現れた。
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