ジャンナ・アドン

 イチが再び目を開けたとき、そこにあったのはアンマールの顔だった。


砂漠の停戦者デザートピジョン……! もう起きないかと思ったよ」


 ほっとしたようにアンマールは相好を崩す。


 イチはあたりを見回そうとしたが、上半身が動かない。ゆっくりと首だけを傾けると、点滴が自分の腕に刺さっているのが見えた。さっきと同じテントの中にいるようだ。さっき? あれは一体どれくらい前の出来事だったんだ? 俺はどれくらい眠っていた?


「もう五日も意識を失ってたんだ。目を覚ましたって聞いてあわてて駆けつけたんだけど、また二時間くらい眠ってた」

「ここは……?」

エデンアドンという……一種の難民キャンプみたいなところだ。僕もよくわかってないんだけど、君たちを助けてくれた」


 


「そうだ……ディランは? ルカやヤナギは?」

「ディランも別のテントで眠ってる。まだ起きてないけど、君と同じように目を覚ますはずだ。あの二人は……」


 アンマールはそこで黙り込み、目を伏せた。イチはベッドを叩きたかったが、ずっと眠っていたせいで腕を振り上げるほどの気力が残っていなかった。


 テントの入口が開かれた。射し込んできた強烈な日光に、イチは思わず目をつむる。

 入ってきたのは大柄の男だった。長髪を後ろで結び、襟の立ったチャイナスーツのような上着を羽織っている。


「目が覚めたと聞いてな。君はアンマールに感謝すべきだぞ。彼が砂嵐の中で君とディランを車に乗せて、我々のところに連れてきたのだ」

「あんたは……?」


 ああ、と男は咳払いした。

「申し遅れた。私はアルゴルだ」

「……エデンアドンの責任者だ」

 アンマールはイチの耳にささやいた。


「アルゴル、それにアンマールも……助けてくれてありがとう。でも、俺行かないと……」


 ようやく身体に力が入るようになり、イチは身を起こして点滴の針を無理矢理腕から抜いた。そのままベッドから下りようとして、縁をつかみそこない床に転がり落ちた。あわててアンマールが駆け寄り、自分の肩を貸した。


「その状態では歩くこともできんだろう。調子を取り戻すまで、ここにいたまえ。我々は歓迎する」

「でも……」


 アルゴルは外に向かって振り向いた。一人の子供がアルミのトレイを手に持って、ぽつんと立ってた。私から渡そう、とアルゴルはトレイを受けとると、イチの前にしゃがみこんで、トレイに置かれていたパンを差し出した。

 小麦の匂いがやけにはっきり感じられ、眠っていた胃腸が急激に動き出す。腹の虫が鳴った。

 トレイの上にはまだパンが二個と、温かそうなシチューが乗っている。


「まあ、まずは食べることだ」


 イチは己の欲求には逆らえず、アルゴルから奪い取るようにしてパンに食らいついた。久しぶりの食物の感触に、あんなに欲していた身体が違和感を覚え、ごほごほと咳き込む。シチューで流し込んだ。

 その生命力あふれる姿に満足したのか、アルゴルは何度か頷くとテントを出ていった。


 ちょっと待ってて、とアンマールもテントを離れる。イチは構わず食べ続けた。


 あっという間にパン三つとシチューを食べ終え、五日も眠っていたというのに固形物を完食した自分に我ながら驚いていると、アンマールがウォーロックを持って戻ってきた。


「これを……彼らに見つからないように、車の中に隠しておいたんだ。なんか変なんだよね、ここ……」


 ディランが抜こうとして倒れたのを知っているアンマールは柄を触らないよう慎重にウォーロックを差し出した。


 イチはウォーロックを受け取る。筋肉が衰えたせいなのか、それともウォーロックの正体を知ったせいか、いつもより重く感じられた。


「柄を触っても大丈夫だ、アンマール。使おうとしなければ、ウォーロックの意識とはつながらない」

「お前といたせいで、しぶとくなったんだよ……それよりも、アンマール。ここの様子が変っていうのはどういう意味なんだ?」


 いや……とアンマールは外をうかがってから、イチに顔を寄せこっそりと話しだした。

「難民キャンプなんだろうと思ったんだけど、それにしては変なんだ。彼らの資金源がなんなのかもわからないし、ここにはやけに子供が多い……覚えてるだろう、砂漠の停戦者デザートピジョン、スワディでは子供も銃を持っていた」


 少年兵。この世で最も邪悪な兵力の一つだ。


「でも、アンマールはここで銃を見たのか? 子供たちが訓練してるとことか」

「訓練は見てない……でも、銃はあった。自衛のためかもしれないけど、それにしてもここの空気はなんかおかしいんだ」


 まるで誰か盗み聞きしていないかという風にアンマールは怯えてテントを見回す。アンマールが恐怖を感じやすいことをイチは知っていたが、それでも彼はイチとディランを見捨てずに、エデンアドンに留まり続けたのだ。臆病と勇気は矛盾なく共存することを、イチは知っていた。


「ディランはどこにいるんだ?」

「隣のテントだ。行くかい?」


 ああ、とイチはまだふらつく身体で立ち上がった。

 そんなイチにアンマールは肩を貸す。

 二人は眠っているディランのもとに向かった。



 ディランが目を覚ましたのは翌日のことだった。

 イチは調子が戻るまでテントで寝ていろ、とアルゴルに言われ、その通りにしていた。どっちにしろ、こんな身体ではどこに行くこともできない。夕食はエデンアドンの人間が届けてくれたが、それも幼い少年だった。


 山岳地帯の近くで小さなバラック地帯を形成しているエデンアドンには様々な人間がいた。戦火で家を焼け出された者、激化した宗派差別や人種差別によって身の危険を感じ、住んでいた地域を離れた者、そして戦争で親を亡くした大勢の子供たち。不当に故郷を追われた人々がトタンやナツメヤシの廃材、分厚い絨毯などを組み合わせて作ったバラック小屋に住んでいた。


 それらとは別にエデンアドンを管理する者たちがいるようだったが、イチには見分けがつかなかったし、何者なのかもわからなかった。


 覚醒した次の日の朝、重たい身体を引きずりテントを出て、陽光を浴びながらストレッチをしていると、大人の一人がイチに駆け寄ってきた。


「君の連れが目を覚ましたぞ!」


 あわてて立ち上がったせいで、なまった腿を攣ってしまった。ぴょんぴょんと片足で飛びながらディランのテントに向かった。


 中から女の子の泣き声がわんわんと聞こえてくる。一瞬嫌な予感がして、イチはテントをのぞきこんだ。

 少女がベッドに乗っているディランの身体に顔を埋め、大声で泣いている。

 ディランはぽかんとした表情を浮かべて、少女を見ていた。


「ディラン……よかった! 生きてた……!」

「……サーリャ? どうして……? ここは天国?」


 わけがわからないという風にディランは呟く。サーリャと呼ばれた少女は構わず泣き続けていた。


 何が起きているのかわからない、かといって間に割って入るわけにもいかず、イチはテントの入口からそれをじっと見ていた。


 誰かに肩を叩かれた。振り返ると、そこにいたのは洋服を着た熊のようなアルゴルだった。


「彼女はサーリャ……『神に導かれし戦士たち』に虐殺されたジェリタ族の生き残りだ」


 涙を流しながらサーリャは笑い、ディランの肩にしがみついている。


「ディランの他にもいたのか……」


 イチは自分の目が潤うのを感じて、あわてて手の甲でこすった。ディランはこの世界に一人きりではなかった。友達が生きていたのだ。それがどれほど幸運で、幸福なことなのかイチにはわかる。


「少し二人きりにさせてやりたいんだが、どうだね?」


 ああ、とイチはアルゴルについてテントを離れた。



 二人はキャンプ地から少し歩いたところにある切り立った岩場の上にしゃがみこんだ。目の前の地平線からは出てきたばかりの太陽が輝いている。砂漠の向こうに大きな街の影がうっすらと見える。


 アルゴルはあぐらをかいて、細長いキセルのようなパイプに煙草葉を詰めると、火皿にマッチの火を近づけた。ほどなくして葉に着火し、アルゴルはマッチを振って消すと、燃えさしをポケットにしまった。薄い紫煙があたりに漂う。


 アルゴルは口を開いた。


「……サーリャを見つけたのは一年前のことだ。ジェリタ族が『神に導かれし戦士たち』に襲撃されたと聞いて、我々はすぐに彼らの住んでいた地域に向かった。そこでは家々が破壊しつくされ、家畜は射撃の的にされていた。血の海の中にジェリタ族の無残な死体だけが残っていた。サーリャはそこで気を失って倒れていたのだ。折り重なる同胞の死体の下で彼女は偶然兵士たちの目から逃れていた。


 このエデンアドンには子供が多いことに気づいたか? 戦争の一番の被害者は子供たち……つまり未来だ。大人はやがてここを出ていけるが、子供たちは違う。我々は彼らが一人でも生きていけるようになるまで、彼らを育て、この世のありとあらゆるよこしまな敵から守る義務がある。この国に住む大人の一人として」


「アルゴル……お前は何者だ?」

「今言ったとおり、ただのお節介焼きだ」

「違う。足音もなく、気配も与えず俺に近づいた」イチの腰にはウォーロックが差してある。「それに、その手の平。肉体労働でつくマメじゃない。銃器や格闘技の実践でつくものだ」


 やれやれとアルゴルは首を振った。


「これを教えるのは君が最初で最後だと願いたい、砂漠の停戦者デザートピジョンよ。……我々エデンアドンはもともと砂漠に住む暗殺教団アサシンだった」

「あれはおとぎ話だろ。『早く寝ないと暗殺教団アサシンに連れて行かれるぞ』俺も夜遅くまで起きてるとき、母さんによく言われたよ……」

「ああ、そうだ。我々はおとぎ話の存在だった。魔法使いや神々と同じようにな」


 そう言うと、アルゴルは煙を吐き出しながらウォーロックに視線をやった。


「だが、数百年の時を経て、我々は共に戦っていた魔擬使いたちにさえ存在を忘れられた。我々は邪神と戦うおとぎ話の英雄から、国家や組織の依頼を受けて殺人を犯すただの殺し屋に成り下がっていたのだ。そんな現状に私を含めてエデンアドンの誰もが忸怩たる思いを抱えていたが、かといって何ができるわけでもない……そんなときにこの戦争が起きてしまった。ようやく思い出したよ。我々は人を殺すためではなく、人を守るために生まれたことを」


 だから我々はエデンの園ジャンナ・アドンになった、とアルゴルは言った。吐き出した煙が消えていく。


「サーリャは友達に巡り会えた。ディランもまた……それが我々の存在する目的だ」

「……よくわかったよ」


 アルゴルの言葉はすべて真実で、彼が途方もなく優しい人間だということが声音からわかった。アルゴルは苦しみに耐え抜いた上で、善なるものを信じている。


「アルゴルになら、ディランを任せられそうだ」

「行く気か、あの砂嵐の中へ」

「ああ」イチは答えた。


 あの砂嵐を泳いでいた一匹の巨大な竜。


 アル・アリが最後に遺した言葉。「竜が」


 そして、あの中で見た過去の幻。あれは危機的状況で脳みそが生命を放棄させるために作り出した幻覚などではなく、おそらくゴールドフィッシュの幻惑魔法によるものだ。


 あの砂嵐自体が一種の巨大な魔法なのだ。


 契約者たちの本拠地である古代遺跡を隠すための。


「あの砂嵐は五年前から断続的にあの一帯で吹き続けている。中では電波もコンパスも効かず、星や太陽さえ厚い嵐に遮られてうかがえない。うっかり迷い込んだ者は皆死んだか、死ぬほど怯えて帰ってきた。それでも行くつもりかね」

「ああ、ディランを頼むよ」


 イチは笑った。


 アルゴルはそれに答えず、黙ってパイプをくゆらせた。

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