血
目の前が一瞬で砂塵に覆われた。イチはあわててローブを引き上げ、口元を隠す。吹き荒れる強風の中でルカとヤナギが何事か叫んでいるが、その意味は聞き取れない。ルカとヤナギ、そしてアンマールの自動車が黄色いモザイクの向こうで黒い影となる。やがてその輪郭もわからなくなり、砂嵐の中に消えていった。
イチは風に腕をとられながらも、ウォーロックをなんとか鞘に押し込み、片腕でディランを強く抱き寄せた。ラクダが唇を震わせ、地べたにしゃがみこむ。
イチはラクダの脇腹を蹴った。この砂嵐から早く脱出しないといけない。
ラクダは不満の鳴き声を上げながらも立ち上がり、とぼとぼと歩き出す。だが、強風が縦横無尽に吹きつける砂嵐の中では赤ん坊が這うよりもゆっくりとしか進めない。
見通しは効かず、フードに打ちつける砂の音が激しくて目の前のディランがなんと叫んでいるかもわからない。
死を覚悟した。それもいつものような瞬間的な死ではない。ゆるやかに命が失われていく予感だ。
何か巨大な生き物の鳴き声が聞こえた気がした。絶望的な状況が聞かせた幻聴だった。
いや、気のせいではない。イチは空を見上げた。
中国の神話に出てくるような巨大な竜が砂嵐の中を泳いでいた。首都にある高層ビルくらいの大きさの竜が頭上をくねり、イチの顔に影を落とす。
竜は破滅的な鳴き声を上げ、火を吹いた。火はまたたく間に空中で爆弾となった。イチの周りに着弾し、次々と爆発していく。イチは爆風から守ろうとディランを抱え込んだ。
不思議とラクダは歩みを止めない。怯えることもなく、のろのろと進み続ける。
爆炎が至る所で上がり、人々の悲鳴や建物が壊れる音が聞こえる。
また一つ爆弾が落ちる。数百の命が消え去る。
爆弾はやむことなく竜の口から吐き出される。そのたびに命が燃え上がる。
また一つ、また一つ……
そしてイチは砂嵐の向こうに見た。
自分の家を。
白い漆喰の壁。ガラスを嵌めただけの簡素な窓。玄関にかけられた祈りのプレート『我々は旅人を歓迎する』まるで平和と幸福の象徴のようなあの家。
竜が吠える――やめろ、あの中には
竜が爆弾を落とす――あの中には
「父さん! 母さん!」
イチは手をのばした。屋根に直撃した航空爆弾の信管が作動し、爆薬が炸裂する。壁が吹き飛び、ガラスは炎にまかれて砕け散り、玄関にかけられたプレートが一瞬で消し炭になった。
前の日はイチの誕生日だった。記憶をなくしたイチを拾い育ててくれた夫婦はイチに誕生日のプレゼントをやろうとした。今にも戦争が始まるという時期に呑気なことを言う二人がイチには腹立たしくてしょうがなかった。そんなの本当の俺の誕生日じゃない、捨てられていた俺を拾った日だろ。そんなのちっともめでたくない。
ただ引け目を感じていただけだった。何者でもない自分への苛立ちを二人にぶつけただけだった。
もしイチが我を張らず、素直にプレゼントが欲しいと言っていれば、二人は街へ買い物に出かけていただろう。あのとき、あの瞬間、あの家にはいないはずだった。米軍のピンポイント爆撃が直撃したあの家に。
イチがたどり着いたときには、家は完全に崩壊し、瓦礫の塊の中ではまだ殺し足りないというように残り火がちろちろと這っていた。
二人を殺したのは兵隊だ。二人を殺したのは戦争だ。
大人たちは言った。だが、イチにはわかっていた。
二人を殺したのは自分自身だった。
それがイチの血だった。
◇
自分が赤いもやの中にいるのがわかった。手足をいくら動かしてみても、何にも当たらない。それどころか、今自分が立っているのか寝ているのかさえわからない。
どこかから声が聞こえる気がした。大人や子供の喋り声。一体どこから聞こえるというのか? ここには何もないのに?
ここにあるのは死の匂いだけ。もやと共にあたりを漂い、世界を埋め尽くす。
そう、ここには何もない。
イチの心の中には。
イチは目を覚ました。
目に入ったのはキャンパス生地の布と鉄パイプの骨組みでできたテントの天井だった。自分はベッドに寝ているらしい。身体を動かそうとしたが、まったく力が入らない。すぐ近くで子供の驚く声がした。アラビア語のようだったが、今のイチの耳には動物の鳴き声が波打ったようにしか聞こえない。
子供はあわててテントを走り出る。
その途端、猛烈な眠気が身体を襲った。少し目を閉じよう。少しだけ。あの子供が帰ってきたら、ここがどこなのか訊いてみよう……
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