終章 ぼくは青空になる
ぼくは青空になる
ウォーロックとその半身がぴたりと組み合わさり、まるで鍛え直したかのように継ぎ目が消え去る。一本の美しい長刀がディランの手によって抱え上げられる。
その瞬間、剣はまばゆく発光し、その刀身にひびが入る。白い光が広大な広間を埋め尽くす。まるで世界の始まりの瞬間のように。
そして鋼の砕け散る音とともに、ウォーロックが破裂した。
満ちていた光を塗り替えるように漆黒の闇が波動となってイチたちを襲う。無限の悪意が、恐怖が、憎しみが、人の感じることのできあるありとあらゆる絶望のかたちがその場にいた者全員の心を打ち砕いた。
漆黒のもやの中、イチはその場に崩れ落ちた。膝が震えて立ち上がることができない。この邪悪なものに比べれば、ウォーロックを使ったときに感じていた地獄など児戯に過ぎない。この世の理を越えて可視化された絶望はあたりの景色を歪ませる。
最も闇の濃い中心、祭壇のそばのディランも耐えきれず膝をついた。
その脇に闇の原点が浮かんでいる。
小さな人型の何かだったそれはこの世界に満ちていた人々の悪意を自らの糧と変え、急速に巨大化していく。あっという間にディランの背丈を越え、人間から巨人へと変わり、広間の高い天井に頭が届いてもまだ成長を続けている。
それは天井を打ち壊したところでようやく止まった。塗りつぶしたように黒い巨大な身体は人のものだったが、その頭は奇妙にねじまがった角をいくつも生やした牛の頭だった。自重で地に沈んでいる足は自動車よりも大きく、それにとってみれば、イチたちなど地べたを這いずり回る蟻でしかない。
「……完全復活しやがった…………」
広間から見える夜空と満月。自らに落ちる巨大な影の中で、朱良は呆然と巨人を見上げていた。
「ウォーロックぅぅ!」
イチは叫ぶ。
それはゆっくりと顔を振り、岩でできた遺跡が砂糖菓子のようにまた崩れる。
「人の言葉で俺を呼ぶな。俺の真名は蛮勇神、ウル・ソ=ベリムルだ」
今やもとの邪神と復活したウォーロック――ベリムルは自分の足元で倒れ苦しんでいる人間たちを見下ろした。
駄目だ。揺らいだイチの心が、ベリムルの発する絶望にさらわれかける。もう、あいつは俺の知っているウォーロックではない。
戦争のために自らの心を押し殺す術を手に入れたはずのタスクフォース0の隊員たちが子供のように悲鳴を上げて地を転がっている。自らの心に一度に押し寄せる恐怖と良心の呵責に泣き叫び、嘔吐し、排泄物を漏らしている。
超常の精神攻撃に耐性を持っているはずの
ただ一人、ベリムルのくるぶしのそばにいるディランだけがなんとか立ち上がった。
「……ウル・ソ=ベリムル! 早く俺と契約しろ!」
「俺に手を貸したことについては礼を言ってやろう。だが、お前は契約の意味をわかっているのか?」
ベリムルの声音はやまびこのように響き渡り、そのたびに吹き出す絶望がその場にいる者たちから生きる希望を奪い去る。
「この世の理すらねじ曲げる超常の力とそれを操る術……その代わりにお前は何を差し出す? お前が俺に捧げる対価は何だ?」
ディランは歯ぎしりする。絶望の圧の中で、漏らすように答える。
「……思い出だ」
「なんだと?」
「お前に俺の思い出をくれてやるって言ったんだよ! 今まであった楽しい記憶も、これから起きる楽しいことも全部全部全部お前にくれてやる!」
だから俺に力を寄越せ! ディランは叫んだ。
「……思い出、か。面白い。そんなものを捧げた奴は今まで誰一人としていなかった」
いいだろう、とベリムルはその巨大な手をディランに近づける。
「お前に魔法を与えてやる。この六百年間で誰も手にしたことのない強大な力を――」
やめろ、とイチは叫んだ。だが、口から出たのは溜め息のような空気だけだった。肺が痙攣してまともに呼吸もできない。届かないと知りながら、その手をディランにのばした。
ディランの頭に、まるで光輪のようにベリムルの漆黒の手が当てられる。
その瞬間、どこからともなく現れた烏が一羽、ディランの肩に止まった。
いや、あれは烏ではない。
イチたちを襲っていたベリムルの瘴気が鳥のかたちを取って、次々とディランのもとへと集まっていく。一羽、また一羽とディランの身体に貼りつき、やがてその暗黒の渦の中にディランの小さな身体は飲み込まれていく。
もはや、ベリムルの手の下にあるのは人のかたちをした闇だった。それでもなお瘴気は集束を続け、闇は徐々に膨れ上がる。人のかたちすら崩れ、この世界にぽっかりと空いた黒点となる。
ついには広間を埋め尽くしていた瘴気のすべてをその身に飲み込んだ。
重圧から解き放たれたルカが、いまだ心に残る絶望に耐えながらもなんとか上半身を起こす。
「ゴルアディスの扉越しではない……邪神との直接契約だと……」
繭のような闇が薄まりだし、ディランの姿がその向こうから幽鬼のように現れ始める。
「ディラン……」
その瞳には生気も、優しさも、かつてディランにあったはずの怒りすらない。ただ人形のように棒立ちになって、ベリムルのなめらかな皮膚の手の平をぼんやりと見上げている。
「イチ、あそこに立っているのはもはやディランではない……この六百年に生まれた中で最も強大な……契約者だ」
獣のような咆哮を上げ、イチは自らの指を瓦礫の敷き詰まった地面に突き立てた。爪が割れ、指から血が吹き出す。ディランが巻いてくれた右手の包帯が赤く濡れそぼり、岩の破片に引き裂かれて剥がれ落ちていく。
イチは地を這い進みながら、声の限りにディランの名を叫んだ。
ディランはゆっくりとこちらを振り返る。イチを捉えたその瞳が純粋な疑問に狭まる。
「……誰?」
その言葉にイチは動きを止める。
「俺だ……イチだ!」
最後の力を振り絞り、再びディランに向かって這いずった。その様子をディランは不思議そうに見つめた。
「ディラン。何を呆けている。お前の目的を忘れたのか」
頭上からベリムルの声が鳴り響く。
ディランはその牛頭を見上げた。
「そうだった……俺は世界中の戦争を殺す……どんなことをしても、必ず…………」
自分に言い聞かせるように呟く。
誰のためにそんなことをするのか、もはやディランは覚えていない。だが、心の奥深くから突き上げる衝動が、そうするように命じていた。
ざくざくという瓦礫を踏みしめる足音。
契約者ゆえにいち早く邪神の瘴気から立ち直ったゴールドフィッシュがふらふらとディランに近づく。山のようなベリムルとディランを見上げ、高らかに笑う。
「これだ……これこそが人間の選択だ。」
「あんた誰?」
「私の名前など今は些事に過ぎない。重要なのは私が戦争の殺し方を知っている人間だということだ。この世界を平和に導く方法を君に教えてやろう」
ゴールドフィッシュは親戚の年長者のようにディランの肩に手を置いた。ディランはぶんと身をよじり、その手を払う。
「俺に触るな。あんたはなんか胡散臭い」
「それでいい……自分の心のおもむくままに戦い続けろ」
「ディラン――」
叫びかけたイチの声は、超常の閃光にかき消された。うっと呻いて、網膜を焼き尽くさんとするその殺人的な光量から、思わず自分の目を守る。
そして目を開けたとき、そこには誰もいなかった。
ディランも、ゴールドフィッシュも、巨大なベリムルでさえ。
瓦礫の山の上に、真っ赤に染まった祭壇だけがぽつんと鎮座している。まるで屍の上に築き上げられた空っぽの玉座のように。ごとり、と瓦礫が一つ、そこから転がり落ちた。
――行ってしまった。
ぼろぼろのイチは何度も膝を折りながらも立ち上がった。もはやその右手に今まで自分が振るってきた力はない。左手に守ると約束した少女はいない。
そこに立っているのは、この国で無数の殺し合いを止めてきた
育ての両親を殺した罪と、迫りくる戦争の影から逃げ続けていた、あの日の無力な少年。
イチは骨が折れるかと思うほど強く拳を握り込んだ。
立ち上がった背後のルカに振り返る。
「さっきの言葉、あれは取り消す」
遺跡に吹き抜けた風がイチの心の中から何かをさらってゆく。月光の下に奪い去られたそれがイチのもとに戻ってくることは二度とない。
「今すぐ、俺に魔擬を教えろ」
争いの螺旋が再びイチを捕らえようとしていた。
ゴールドフィッシュの言葉をイチは思い出す。
人が人である限り、戦争は終わらない。
それがたとえ、誰かを守るために立ち上がった人間であっても。
これからイチがやろうとしていることは、それをただ証明するだけなのかもしれない。
それでも足掻き続けなければならない。
あいつがもう覚えていないとしても、俺は確かに約束した。
お前が幸せになる日が来るまで、ずっとそばで――
ノーマンズランド 石井(5) @isiigosai
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます