約束
しばらくすると、最寄りの米軍基地からヘリコプターが一機やってきた。
アランの指示のもと、怪我人から順番にヘリコプターに吊り上げられていった。隙間は人二人がやっと通れるほどの大きさしかないので、時間はかかるが一人ずつヘリコプターに回収するしかない。
定員限界まで乗せると、ヘリコプターは基地へ一旦帰投する。人々を降ろしてから、再び戻ってきて回収を再開する。
最初は途方もない作業に見えたが、回収作業が進むにつれ、徐々に人が減っていくのを実感する。
残っているのは
ゴールドフィッシュは広間とは別の、
「この国で流れた大量の血をウォーロックの半身に捧げて、増幅したそいつでゴルアディスの扉をぶち壊す。
朱良はルカや紹雄ら、他の
イチは投下された毛布にくるまり、じっと地面を見つめていた。肩を抱いているディランに注意を払う余裕はない。ただ己の心の中に集中して、さまよい、手招きしてくる亡者の幻を打ち消そうとしている。だが、それは逆効果だった。見つめれば見つめるほど、亡者の顔は精彩さを増してイチに迫る。
イチがときおり悲鳴を上げると、ディランはびくりと身を震わせた。
その姿を見ていたアランは溜め息をつくと、バックパックからチョコバーを取り出し、ディランに向けて放り投げた。
「これかじって遺跡でも探検してこい。ガキらしくな」
ディランはチョコバーを受け取り、不思議そうに見つめ返す。アランの英語が理解できなかったのだ。ルカが近づいて、代わりに耳打ちする。
「君も休め。ずっとイチのそばにいたんだろう。少しあたりを歩いてこい」
「でも……」
「安心しろ。イチは私とヤナギが見てる」
せやせや、とヤナギもしゃがみこんで、ディランに視線を合わせる。
「こんなごっつい遺跡来る機会、もうないで」
うん、とディランはウォーロックを持って立ち上がった。
「ゴールドフィッシュのいる部屋にだけは近づくなよ」
ルカが釘を刺す。ディランは気のない返事を返すと、開封したチョコバーをちろちろ舐めながらゆっくりと広間をあとにした。
ルカはふうと息を吐いて、毛布を頭からかぶり、自分の両膝をぎゅっと抱えているイチを見下ろす。イチもそうだが、こんな状態の彼のそばにいたらディランまで消耗してしまう。
「……イチ」ルカは優しく呼びかけたが、聞こえていないようで、毛布の陰から見えるイチの両目はただ何もない空間を凝視している。ルカは黙ってヤナギを見た。ヤナギが静かに首を振る。
ルカは少し考え込んだあと、地面の砂を手ですくい、イチの前にさらさらとこぼした。
魔擬の込められた砂粒は地面に落ちると、まるで透明な型がそこにあるように丸と棒だけでできたシンプルな人の形に積み上がった。イチの目の前にできあがった小さな砂の人形はざらざらと動き出すと、イチに向かって丸みがかった腕を振った。
「こんにちは、僕はジョバンニ。どうしたの、イチ。元気ないね」ルカは無表情に裏声を出し、魔擬の操り人形に声を当てた。
イチの目が人形を捉え、ぼんやりとしていた瞳に光が戻ってくる。隣でしゃがみこんでいるルカを、イチはゆっくりと振り向いた。
「…………そんなにこっちを見るな。私だって恥ずかしいんだ」
ぶふうーっとヤナギが吹き出した。くつくつと笑いをこらえながら、イチの頭をつかんで人形に向き直させた。
「子供の頃、魔擬の練習でようやっとったんや。付き合ったってや」
顔を赤らめたルカがごほんと咳払いをしてから、もう一度裏声で人形を喋らせる。
「どうしてそんなに悲しそうな顔をしているの? この世界には楽しいことがいっぱいあるんだ。泣いていたら見逃してしまうよ」
「泣いてなんかいない……ただ、腹立たしいんだ」
「何に?」クエスチョンマークを浮かべたように人形は自分の頭に手を当てる。
「自分にだ。俺は誰も救えなかった。差し伸ばした手はいつも届かない」
「うーん。よくわからないけど、イチの手は本当に要るのかな?」
「どういう意味だ……ジョバンニ」イチは人形の名を思い出し、彼を呼んだ。
「だって、イチの手がなくたってみんな一生懸命生きてるよ。砂でできた僕だってほら、ちゃんと踊れる」
人形はくるりと回ってみせたが、足がもつれて「おっとっと」とよろめいた。そのどこか抜けた様子にイチは微笑みを浮かべる。
「ようやく笑ったな」ルカの声に、イチは顔を上げた。毛布がばさりと落ちる。ジョバンニはお別れ代わりに手を振ると、もとの砂の姿へと崩れ去った。
「スワディでのことを覚えているか? 奇術師に変装したときのことだ」
「ああ」
ルカはイチの隣に座り、肩を並べた。
「あのショーは魔擬を使った虚業だったが……それでも私には初めての経験だった」
「……手品をやったことが?」
「いや、誰かを笑顔にしたことだ。結局あの住人たちは『神に導かれし戦士たち』が偽装した者だったが、あのとき起きた喝采や笑いは確かに本物だった。怒りと誰かの真似事しかなかった私が、初めて自分が守るべきものを生み出した」
イチは弱々しく呟いた。
「ごめん、何が言いたいのか――」
「あのとき気がつくべきだった。君が私を救ってくれたんだ、イチ」
その言葉にイチは目を見開く。
「君はもう充分戦ってきた。命以外にも、誰かの大事なものをたくさん救ってきたんだ。それこそが君の選ぶべきもう一つの道だった」
「……それじゃ駄目なんだ」イチは震えるように頭を振る。「俺は、俺の手からこぼれ落ちた人たちの顔を忘れることができない。もっと力が要るんだ、もっと強い……」
「……率直に言って、今の君は正常ではない。君に必要なのはより強大な力や、誰かの助けを待っている人々ではなく、穏やかな生活と精神医学的治療だ」
その直接的な物言いに、ヤナギは「ルカ!」と声を上げて咎めた。
「――だが、健康な心を取り戻してもなお、世界を守るために戦う意志があるのなら、私が君に力を与える」
私が君に魔擬を教えよう――ルカはそう言った。
「……本当か?」予想外の言葉にイチは驚いた。
「いまだ未熟の身でこんなことを約束するのはおこがましいが……重ねて言うが、君の心を治すのが先だぞ」
ああ、とイチは頷く。魔擬を教えてくれることよりも、ルカが自分のことを思って言ってくれたことが素直に嬉しかった。ただ力を貸しただけの流浪者ではなく、本当にルカたちの仲間と認められたような気がした。誰かを救って感謝の言葉を貰ったときとも違う、暖かい気持ちが胸に浮かんだ。
「日本に魔擬使いたちの住む島がある。安心したまえ、電気も水道も通っている。まずはそこで平和な日常に――」
そのとき爆発音が響いた。
◇
捕らえた
両手両足をダクトテープで厳重に縛られ、猿ぐつわと鼻に溜まった血で呼吸が苦しい。幻惑魔法に変換するための煙を出すことはおろか、ボディランゲージを伴う他の魔法を使うことすらできない。
おそらく古代の宝物殿であろう巨大な倉庫のような部屋の真ん中で、ゴールドフィッシュは芋虫のように転がされている。かつてここに保管されていたはずの宝物は盗掘者によってとっくの昔に運び出され、部屋はがらんとしていた。そこにいるのはゴールドフィッシュと見張りについている二人のアメリカ兵だけだった。
身をよじるたびに、朱良反の魔擬によって数ミリ単位で切り刻まれた耳と鼻が痛んで、ゴールドフィッシュは呻き声を上げる。アメリカ人は見向きもしなかった。
今のところ、自らに施した心的防壁の魔法のおかげで、
この肉体的拷問で疲弊した身が精神攻撃系の魔擬に耐えることができるとは考えられなかった。ゴールドフィッシュの精神は完全に打ち砕かれ、邪神の封印されたあの魔剣の刃の在処を喋ってしまうに違いない。それだけはなんとしても避けなければならない。
だが、そう考えているのは朱良反や
ブラッドサマーも雷電喜之介も殺された。頼れるのは自分一人だけ。
行動を起こすならば、今しかない。
ゴールドフィッシュは激しく咳き込んだ。またか、と見張りに立っていた二人の兵士は肩をすくめて顔を見合わせる。
だが、その猿ぐつわが血で真っ赤に染まり始めると、兵士たちはあわてて立ち上がった。
「おい、
その怒鳴り声に、一人の兵士が走って部屋を出ていき、もう一人の方はゴールドフィッシュに駆け寄った。
「おい、大丈夫か!」兵士は血を吐き続けているゴールドフィッシュの猿ぐつわを外してやる。
そのとき、兵士はその血が内臓損傷などによる致命的な出血などではなく、舌を噛み切って流れたものだと気がついた。
「この野郎――」
怒鳴りかけた兵士の顔に、ゴールドフィッシュが小さな煙の塊をぶつける。
それはアランがブラッドサマーと雷電を撃ち殺したときに生まれた硝煙、ゴールドフィッシュがとっさに鼻から吸い込み、肺の中に今まで溜めて作り上げていた幻惑魔法だった。
一分後、ゴールドフィッシュは遺跡の通路を走っていた。
幻惑魔法は対象者の感情を異常に増幅させ、通常ではありえない行動へと駆り立てるものだ。だが、慣れた者であれば、そこに暗示的文言を囁いてやることで、ある程度発動した直後の行動を操ることができる。あの兵士はゴールドフィッシュではなく、自分の恋人の拘束を解いたのだとまだ思い込んでいるだろう。
ゴールドフィッシュは通路の角を何度か曲がる。追手はいないようだ。
何もない通路の途中で立ち止まると、壁に向かってしゃがみこんだ。
壁を構成している石組みの一つをゆっくりと抜き取る。
そのへこみには、錆だらけの折れた長刀の刃が置かれている。
ゴールドフィッシュはその魔剣の半身をゆっくりと持ち上げた。こちら側に意識がないとはいえ、超常の力を宿していることに変わりはない。錆だらけの刃でも容易に肉を斬り裂く。
慎重な手つきでタキシードの上着にくるみ、しっかりと脇に抱える。
これでいい。これさえあれば、何度でもやり直せる。贄のための戦争を再び引き起こすのは手間だが、これ以上
あとは
そのとき背後で足音が聞こえ、ゴールドフィッシュは振り向いた。
そこに立っていた者の顔に、驚愕の表情を浮かべる。
「お前は……」
すべてを言い終える前に、衝撃波がゴールドフィッシュを壁ごと吹き飛ばした。
◇
突如として、広間の壁の一部がこちら側に向けて爆発した。大きな壁の欠片が発砲スチロールのように砕け散る。細砕された瓦礫が煙塵となって、壁に空いた大穴を覆い尽くす。
爆発音が残響の尾を引きながら消えていく。水に溶かされた粉薬のように、砂煙が徐々に薄まってゆく。イチも起き上がり、ルカとヤナギの隣で目をこらした。
瓦礫の山の下でゴールドフィッシュが血を流して倒れている。
その砂もやの中から、小さな細い足が突き出た。丈の合っていないズボンの裾からくるぶしを見え隠れさせながら、何者かが歩み出てくる。
砂煙が完全に晴れ、あらわになったその顔にルカが息をのむのが聞こえる。
目の前をきっと見据えたまま、ディランが煙を割って現れる。
その右手にはウォーロックが握られていた。
「……ウォーロック生きてたのか! やっぱり騙してたんだな!」
イチはディランとウォーロックに笑いかける。だが、ディランはまっすぐに広間の真ん中にある祭壇を見つめていた。
「俺は嘘などついていない、イチ」
ディランは祭壇に向かって歩き続ける。その確かな足取りは、まるで最後の祈りに向かう聖職者のようだった。決意と信念、そして奥底に隠された戦う意志。
「これでお別れだと言っただろう」
イチの言葉をウォーロックは無感情にはねのけた。
どうしてウォーロックはディランに力を貸したのか? イチの頭に浮かんだ疑問は、すぐに思い至ったある事実にかき消された。
ディランはウォーロックを使っている。今、あいつの心はあの地獄のようなウォーロックの心象に晒されている。この世の悪意をすべて詰め込んだ、あの風景を。
「ディラン! それ以上ウォーロックを使うな!」
イチは地面を蹴り出した。戦いで負った傷のせいで、全身が焼けるように痛んだが、ディランに向かって走り続けた。
ディランがくるりと振り返り、ウォーロックを振るう。イチが使っていたときよりはるかに強力な衝撃波がイチの目の前を通り過ぎて、爆音とともに地面に深い割れ目が走る。イチはその割れ目の手前でなんとか踏みとどまった。
ディランは自分が引き起こした大禍と、今や自らの精神と完全に直結しているウォーロックを交互に見た。
「自分のためじゃなくて、誰かのためになら耐えられるんだな……」
「もういいだろ、ディラン!」イチは叫んだ。「これ以上ウォーロックを使うな! もう全部終わったんだ!」
「終わった……? 終わってないだろ、バカイチ。お前はこれからも誰かを助けるために戦うつもりなんだろ。この国を平和にしたら今度は別の国に行ってさ。そんなのに終わりが来るわけない」
イチは返す言葉を失った。ディランの言うとおりだった。一瞬前に、そのための約束をルカと交わしたばかりだった。
「……だけど、もういいんだ。イチはもう苦しまなくていい。代わりに俺が全部終わらせてやるから……この世の戦争を俺が全部殺してやるから」
そのとき、イチはディランがもう片方の手ににぎっているものに気がついた。
緑青色の錆にまみれた、長刀の刃。刀身はディランの手の平に鋭く食い込み、だらだらと流れる赤い血を吸い込んでいる。
間違いない。
あれはウォーロックの――
同時に、それに気がついた朱良が魔擬を放つ。明らかな殺意を持ってディランの急所目がけて放たれたそれは、しかし再び振るわれたウォーロックの衝撃波によってあっさりとかき消された。
「あいつを祭壇に近づけるな!」朱良が怒号を発する。
「こんなのおかしいやろ……絶対あかん」
「朱良先生! 相手はまだ子供だ!」
「ガキだろうとなんだろうと関係ねえ! 殺すつもりでやらねえと手遅れになるぞ!」
彼らの魔擬や銃弾をもってしても、ディランの歩みは止まらない。ディランがウォーロックを振り回すたびに、超常の嵐は強さを増し、それらをすべて叩き落とす。
ディランはウォーロックを振り上げる。衝撃波が天井を破壊し、降り注いできたその破片に
人間大の瓦礫が雨あられと降りしきる中、イチは叫び続けた。
「やめろ、ディラン! そんなことしなくても俺は……俺は……!」
そして、ディランは祭壇にたどり着いた。
ウォーロックと、その半身が祭壇の上に掲げられる。無垢な子供の血が刃からぼたぼたと流れ落ちる。巨岩を切り出して作られた煤色の祭壇が生き物のように真っ赤に染まってゆく。
「イチ、約束してくれてありがとう。幸せになるまで守ってやるって」
「ああ、そうだ! ずっとお前のそばにいるから! それを下ろせ!」
「……でも、もういいんだ。そう言ってくれただけで俺は幸せだったから」
そう言い残し、ディランは大きく振りかぶると、ウォーロックに刃を押し当てた。
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