人間の価値
兵士の数はおよそ百人。アサルトライフルを構えながら、こちらに近づいてくる。その最前列にいたゴールドフィッシュは煙草に火を着けると、長々と煙を吸い込んだ。
「
文言と共に大量の紫煙を口から吐き出すゴールドフィッシュ。煙は地を這って辺り一面を飲み込んでいく。二人の足元をもやがかった煙が撫でる。
果物の甘い匂いと焦げ臭さが混ざりあったような奇妙な異臭がイチの鼻をくすぐった。
朱良は口元を覆って叫んだ。
「クソ、幻惑魔法だ! イチ、この煙を吸うな! 操られるぞ!」
その言葉にイチもあわてて呼吸を止め、自分の口をローブの袖で隠す。だが、息をしないでいるのにも限界がある。そもそもこんな状態で戦うなど不可能だ。
「俺が行こう。
バーチャスが朱良の肩から飛び立ち、神威を発動させる。巨大な龍と化したバーチャスは炎を撒き散らしながら辺りを低く飛び回る。
紫色の火花が嵐のように飛び散り、幻惑の魔煙は業火に焼かれて霧消した。
煙が晴れて、再び戦闘態勢をとる兵士たちの姿が現れる。
「吸っていれば楽になれたものを……」
その人垣の中から、ゴールドフィッシュが吊り上げられたようにゆらりと浮かび上がった。
「ゴールドフィッシュを頼む! 俺は兵士たちを!」
「死ぬなよ!」朱良はそう叫び、ゴールドフィッシュに向けて跳躍した。一瞬後、超常の魔擬と魔法がぶつかり合い、辺りに雷光が轟く。そのまま朱良はゴールドフィッシュを敷地の端へと押し込んでいった。
一方のイチはウォーロックの鞘を投げ捨て、地を蹴る。神速の如き素早さで兵士の一団の中に転がり込むと、同士討ちを恐れて一瞬躊躇した兵士たちを、ウォーロックを振り回して衝撃波で弾き飛ばす。悲鳴を上げて将棋倒しになる兵士たち。
その隙に宙に浮いたアサルトライフルをウォーロックに飲み込ませる。瞬時にウォーロックの姿が巨大な細筒へと変わった。
組み伏せようとしてきた兵士をウォーロックの銃身で殴り飛ばしたあと、周囲に向かって光弾をばら撒いた。次々に兵士が吹き飛んでいく。
無事な兵士は走り出し、イチから距離を取ろうとする。その背中に向けてイチは光弾を撃ち続けた。すぐに弾丸が切れ、イチはウォーロックからライフルを吐かせる。
グレネード、と兵士の誰かが叫ぶ。手榴弾のピンを抜く甲高い音がイチの耳を貫く。
「まずい!」
放物線を描いてこちらに向かってくる
瞬間、ウォーロックの中で手榴弾が爆発する。刀身が風船のように膨らむ。衝撃波だけがウォーロックを透過して、周りの兵士たちを吹き飛ばした。
衝撃は同様にイチの身体も襲った。手の皮膚が張り裂け、骨がきしむ。頭蓋の中で脳が揺さぶられ、意識が一瞬遠のいた。着地と同時にイチは崩れ落ちる。
少し離れたところで、最後の一人がライフルを構える。イチはいまだ煙が細くたなびくウォーロックを振って、衝撃波で殴り飛ばした。
浮き上がった兵士は三メートルほど吹き飛び、どさりと地面に落ちた。
イチが緊張と疲労を吐き出すように長い息をついたあと、ウォーロックをだらんと下ろすと、その
辺りには昏倒した兵士たちが転がっている。ウォーロックは嫌味ったらしくぼやいた。
「いつもながら人使いの荒い奴だ。俺は魔剣だぞ。もっと丁重に扱え。そして敬え」
「もう少し頼む、ウォーロック。朱良に助太刀しないと……」
そのとき、破砕音がして庁舎の一角が吹き飛ぶ。その煙塵の中からぼろぼろになった朱良が飛ばされて、イチの目の前を転がった。
「朱良!」イチは走り寄り、その身を起こす。
「大丈夫か?」
「くそっ……思ったより手こずるな……腕さえ折れてなきゃあ、あんな奴一発でのしてやるんだが……」
ぼう、と音がして瓦礫が燃え上がり、二人は庁舎を振り向いた。瓦解した一角が地獄のように炎に包まれ、その中からゴールドフィッシュが歩み出る。
その手にはバーチャスが握りしめられていた。バーチャスは時折神威を発動させようと身をくねらせ爆炎を噴出するが、ゴールドフィッシュの魔法に弾かれたそれは建物を燃え上がらせるだけだった。
ゴールドフィッシュはバーチャスを投げ捨てた。白斑のバーチャスの身が二人の目の前にゴム管のようにべしゃりと叩きつけられる。
「直接的な殺し合いは私の専門ではないんだがね。まあ、降りかかる火の粉は払わねばなるまい」
まるで自分に襲いかかる敵より注目に値することと言わんばかりに、ゴールドフィッシュは白いタキシードにかかった瓦礫の屑を丁寧に払い落とした。
イチは気合を発し、ゴールドフィッシュに飛びかかる。だが、ウォーロックの衝撃波はゴールドフィッシュの眼前で見えない壁に弾かれた。
「
どしりとイチの背中に重たいものがのしかかる。イチは耐えきれず膝を折り、地面にひれ伏した。ゴールドフィッシュの魔法により、イチの周囲数メートルに平常の数十倍の重力がかかっているのだ。魔法によって捻じ曲げられた自然法則がイチの身体を押し潰す。口を開けば内臓が飛び出てしまうような気がして、イチは悲鳴を飲み込んで唇を固く結んだ。
「君たちは私が相手の意志を捻じ曲げて、意のままに操っていると思い込んでいるようだが、実際は違う。私はただ背中を押しているだけだ。怒り、嫉妬、生理的な嫌悪感、社会的不安、名誉欲や自尊心……人の心の中では争いの種がいくつも渦巻いている。感情の比率を少しいじるだけで、人間は容易に獣へとなり得る弱く脆い存在なのだ。どうだね、
ゴールドフィッシュは魔法を解く。潰されていた肺が酸素を求め、イチは大きく呼吸した。息を吸い込むたびに、身体中あちこちが痛む。そしてその痛みがイチの中から決意や勇気といったものを奪い去る。
だが、イチは立ち上がった。
「そんなことはな……とっくの昔にわかってるんだよ……」
「失礼。今なんと?」
イチは震える腕でウォーロックを持ち上げる。
「わかってるって言ったんだ……誰だって怒ることはある……怖いものだってある……嫌いなものや憎いものだって…………だから、なんだっていうんだ? その気持ちが争いを引き起こすとしても、それがなければ愛情や優しさだって存在しない……!」
朱良も傷ついた身体を引きずりながら、イチに肩を貸してやった。
「どうもお前の古臭い説教は若者には向かないみたいだな……ゴールドフィッシュ」
ゴールドフィッシュはふんと鼻を鳴らした。それは今までの冷静な所作からは信じられないほど無作法だった。
「君のような頑固で青臭い若者はこの半世紀で大勢目にしてきた。皆、私の前で死んでいったよ。君もそのうちの一人だったというわけだ」
潰れるがいい、とゴールドフィッシュは再び
「何……?」
だが、圧によってじりじりと押し込まれていく。イチの両腕は震え、脂汗が滝のように流れ落ちる。ぎぎぎぎと鋼鉄のきしむ音がウォーロックからは漏れている。
「ふざけるな! 俺を殺すつもりか!」
「少しだけ耐えてくれ……バーチャス!」
イチの声に応え、バーチャスは最後の力を振り絞って
ゴールドフィッシュは
その瞬間、イチの両腕にかかっていた圧が消え去る。
即座にイチは走り出した。
ウォーロックを掲げ、声を涸らしてバーチャスを呼ぶ。
「バーチャス! 来い!」
炎の龍はその言葉を信じ、身を翻した。イチのもとへと舞い戻る。
ゴールドフィッシュが立ち上がった。
「
「
ゴールドフィッシュがイチに向けて放った真っ赤な光弾は朱良の魔擬によって弾かれ、あらぬ方向で爆発する。
イチは気合を発し、跳躍した。
その眼前には燃えたぎるバーチャスの蛇身。
イチはウォーロックを突き出す。
その不屈の意志が魔剣と呼応する。
ウォーロックがしゅるりと首をのばす。
そしてバーチャスは地獄の入口のように開かれたその
瞬間、ウォーロックが爆発する。柄が燃え上がったように熱を発し、イチの手の平を焦がす。ウォーロックの根本から巨大な青白い炎が刀身となって吹き出す。超常の存在である擬神を飲み込んだことで、魔剣は理を越えた武器へと存在を変えた。
イチは完全にこの世ならざる姿へと変わったウォーロックを空中で振りかぶる。
本能的な恐怖心から、ゴールドフィッシュはとっさに反撃ではなく、魔法による防御壁の構築を選んだ。
だが、その選択は間違いだった。
イチは着地と同時にウォーロックを振り抜く。
燃えたぎる刃が防御壁を易々と打ち砕き、ゴールドフィッシュを袈裟懸けに斬りつけた。見えざる防御壁の破片が光を反射しながら雪のように舞い落ちる。
青白い炎はゴールドフィッシュの身体を透過し、その精神だけを叩き斬った。イチの意志に連動して伸長した炎の刃は背後に立ち並んでいた並木にまで届き、樹木が火を上げて斬り倒される。樹が轟音を立てて地面に落下したのと同時に、ゴールドフィッシュは膝をついて地に倒れた。
イチがそれを見届けた瞬間、ウォーロックがげええと漏らし、吐瀉物のようにバーチャスを吐き出した。蛇の姿に戻っていたバーチャスはくしゃりと地面に着地する。
「イチ、お前! なんてものを飲み込ませるんだ!」
そう言いながら、ウォーロックは再びおろろろろとえずいた。しかし魔剣なのでこれ以上何か出るわけでもない。
バーチャスも憤懣やるかたないという様子で舌を出し入れした。
「それはこっちの台詞だ。あんな汚い穴初めて入ったぜ。……いいか坊主、こんなのはこれっきりだからな。俺に命令していいのは姉御だけだ」
「二人ともそんなに怒るなよ。うまくいったからいいだろ」
ゴールドフィッシュは地にうつ伏せになったまま、指一本動かさない。それを見下ろしていると、朱良に肩を叩かれた。
「素人にしちゃ、うまくやったな。神威を発動させたバーチャスを飲み込ませるなんてな。ウォーロックがあんな風になるって知ってたのか?」
「いや。でも、なんかいけるんじゃないかなって」
「ふわっとしてんなあ」
「おかげで俺は胸焼けが酷い」
そのときバーチャスの「姉御!」という叫びに二人は振り向いた。
ゴールドフィッシュが立ち上がっていた。その足は弱々しく震え、これ以上戦う余力があるとは思えない。だが、その口には煙草が咥えられていた。
ゴールドフィッシュがぼろぼろの腕で撫でると、魔法によって煙草の先に火がともる。
「やめろ!」
朱良の制止と同時に、ゴールドフィッシュは呟く。
「
瀑布のようにゴールドフィッシュの口から溢れ出た紫煙が、一瞬にして周囲を埋め尽くした。魔煙による酩酊が全員の思考を襲い、視界を奪い去る。
あわててイチは呼吸を止め、ウォーロックを振り抜いた。衝撃波が竜巻のように吹き抜け、魔煙を散り散りに吹き飛ばす。
煙が晴れ、辺りに風景が戻ってくる。
ゴールドフィッシュは姿を消していた。
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