ハート・ロッカー


 彼は七〇年にアリゾナで生まれた。父親は酷い飲んだくれアルコホリックで、過去に自分が父に受けた暴力の鬱憤を晴らすための存在サンドバッグとしか彼を見ていなかった。七五年に母親は五歳になった彼を連れて家を出た。自分の両親を頼ってソルトレークシティへと逃げ、ダイナーのウェイトレスの職を得て、女手一つで彼を育てた。

 八十九年、成長した彼は陸軍に入り、九十二年に基地のハロウィンパーティーで出会った女の子と結婚した。同じ年に子供が生まれた。男の子だった。いつのまにか女の子から母親になった妻が抱きしめるしわくちゃの我が子を見ながら、彼は心の奥底で震えていた。

 彼は憎悪と暴力の鎖に囚われた自分の父親を思い出していた。知らず知らずに自分もその鎖の輪の中に引きずり込まれているのではないかと、夢の中で何度も自問した。ベビーベッドの赤ん坊の息子に無邪気に指さし笑われると、自分に子供を育てる資格などないのだと責められているように感じた。

 彼の父も、そのまた父も軍人だった。そして彼も軍人になった。

 それ以外の道で生きていける気がしなかった。だけど、その兵士としての素質こそが父親から引き継いだ忌まわしき何かの一部のような気がした。

 二〇〇七年になり、息子は十五歳になった。いまだに彼は自分の子供が怖かった。息子と接することで、自分の内なる獣が牙を剥くのではないかと恐ろしかった。今や息子は彼のことを無視し、悪い仲間とつるんではドラッグばかりやっている。放任主義を隠れ蓑に、息子から逃げ続けてきたがこれだ。

 いまだに彼は逃げている。アメリカからこの国へと。すでに派兵は三度目だ。今となってはこちらが現実で、アメリカが夢のような気さえする。

 おそらく自分は父と同じ道をたどっているのだろう。それがたまらなく怖くて、だがもうこのままでいいという諦めもあって、そんな自分がやはり怖かった。

 隣に立っているロビンソンが構えた銃口を、彼が掴んで無理矢理下ろしたのは、それが理由だったのかもしれない。

「軍曹……」とロビンソンは不安げに彼を見返した。

「撃つな」

 彼の視線の先には、被弾し腹から血を流すマックインとその肩を支えながらこちらに歩いてくる青年の姿があった。


 ぼろ布のようなローブをまとった青年は英語が話せなかった。おそらく何度も繰り返したイチという言葉が彼の名前なのだろう。この国の人間にしては珍しい名前だった。

 言葉がわからなくても、青年が困っているのはわかった。砂漠地帯のど真ん中に水も食料も持たず、ただ根本から折れた剣だけを携えていたのだ。

 作戦行動を終了し、青年と共に帰投した彼は上官にかけ合い、身寄りのない青年を基地に置いてもらうことにした。仲間を助けてもらった恩義もあるし、敵のスパイにしては潜入の仕方が粗雑すぎる。折れた剣だけは一応没収された。

 口の回る兵士の一人が、あいつは砂漠の停戦者デザートピジョンなのではないか、と笑った。折れた剣を振るって、この国での戦闘を止めて回る愚か者。彼もまた笑って否定した。あれは幽霊戦闘機フーファイターと同じ与太話だ。それに穏やかな顔をしたあの青年が戦場で戦う姿は想像できなかった。

 人懐っこい青年はすぐに基地中の人間と仲良くなった。イチ、イチといたるところで呼ばれ、運がつく、と頭を撫でられていた。彼がたまにイチを見つけると、大体兵士からもらったチョコバーや果物を食べたり、オレンジジュースを飲んでいたりした。

 あるときイチは両手から溢れんばかりに巨大なスイカを抱えていた。彼が見ているのに気づくと、イチは棒でスイカを叩き割り、赤い果肉の切れ端を彼に差し出した。

 彼はスイカを受け取り、イチに尋ねた。

 お前はこの国で何をやってるんだ、と。

 イチは困ったように笑うだけだった。


 ある日、市街地でテロが起きて、彼らは出撃した。相手はよくわからないなんらかの過激派だったが、とにかく一切の損耗なく殲滅した。後のことは彼らに出撃を命じた人間たちの考えることだ。

 その夜、射撃場の真ん中に焚き木を積み上げ、全員が無事に帰投したのを祝してキャンプファイアーをした。特に準備をしていたわけではなく、戦闘後で気分の高揚した兵士たちがなし崩しに始めたのだ。誰が作ったのか、いまだ見つからないテロリストの写真を貼りつけたカカシが火あぶりにされている。皆、ビールを飲みながらそれを囃し立てていた。彼も少し離れたところで缶を傾けた。

 この前、週に一度割り当てられているビデオ通話にようやく息子が顔を出した。何も喋らず、ただぶすっとこちらを睨んでいるだけだったが、彼にはそれで充分だった。

 今なら息子と向き合えるような気がした。自分は父親とは違うのだと信じられる気がした。

 帰ったらキャンピングカーでも買おう。もうすぐ軍に入隊して二十年になる。そうすれば年金ももらえるようになる。退役して息子と二人でアメリカ中を回るのだ。妻は次の仕事を早く見つけろと文句を垂れるかもしれない。息子も応じてくれるかはわからない。だけど、今なら息子と向き合える。それがたとえどんな結果で終わろうとも、今の自分であれば家族だけは絶対に傷つけないと確信できた。

 キャンプファイアーの周りが盛り上がる。イチが大きな木箱を抱えてやってきたのだ。

 おいおいその木箱はなんだ、と兵士の一人が大声を上げて笑う。

 中身はお前のおふくろか?

 イチは黙ったまま、その木箱を炎の中に投げ込んだ。

 炎がよりいっそう強く燃え立ち、兵士たちも口笛を吹いて沸き上がった。

 そのとき銃声が鳴った。

 伏せろ、と誰かが叫び、兵士たちは悪態をわめきながら地に転がった。

 炎の中で弾丸がはぜている。まるで機関銃の連射のように銃声が鳴り続けている。

 彼はビール缶を取り落とした。


 イチは拘束された。

 どうやったのか武器庫から弾薬や手榴弾を盗み出し、キャンプファイアーの中に投棄したのだ。およそ二千発の五・五六ミリ弾と八百発の九ミリ弾、百二十個のM67手榴弾が炎に焼かれて廃棄処分となった。火薬が破裂しただけで弾丸は発射されていなかったため、怪我人はいなかった。

 イチは居住区から離れたプレハブ小屋の営倉に入れられた。フレッド・ソダーバーグ中尉は悲しそうな顔でうなだれているイチをのぞき窓から見ながら、悪魔に対してするような悪態をつき、この件の責任は君にもある、と彼に言い放ち司令本部へと帰っていった。明日になればアラビア語の通訳がやってきて、イチへの尋問が始まるだろう。

 イチがのぞき窓に近づき、彼を見た。

 どうしてあんなことをしたんだ、と彼は尋ねた。

 イチは彼がさげているM4アサルトライフルを指さし、悲しそうな笑顔で首を振った。


 兵士たちはやたらとクソファッキンを使って憤っていた。

 人の好さそうな奴だと思ったら、クソファッキンスパイだったのか。あのクソ野郎マザーファッカー俺たちを騙しやがった。クソファッキン馬鹿の振りをして俺たちにクソファッキン小便を引っかけやがった。

 そのクソファッキン罵り合いに彼は参加しなかった。イチがアサルトライフルを指して首を振ったのを見たとき、彼が思い出したのは自分を指さして笑った赤ん坊の頃の息子だった。自分の呪われた血も、息子と上手くいっていないことも何もかもイチに見透かされている気がした。

 尋問は今日も続いていた、らしい。彼にその進行を知る権限はない。だが、いくらイチを尋問しても、ろくな答えは返ってこないだろう。彼はただの青年なのだ。スパイでもテロリストでも兵士でもない。

 イチのことはもう忘れるべきだ。彼は首を振った。彼は戦友ではないし、それに戦争ではもっと酷いことが毎日起きている。

 彼はノートパソコンを開いた。今日は週に一度許されている家族とのビデオ通話だ。今夜こそ、息子と向き合わなければならない。

 通話ソフトを起動する。通信が開始される……

 爆発音が基地に響き渡った。地震のような揺れと一瞬遅れて建物内に無機質な警報が鳴り始める。

 敵襲だ、と誰かが叫ぶ。

 数千キロの距離が繋がって、パソコンの画面に息子と妻の顔が映った。

 こちらを見つめる二つの顔。息子の口が開きかける。

 彼はパソコンを閉じ、銃火器の保管されているロッカーへ向かった。

 インターセプターアーマーを装着し、アサルトライフルと予備のマガジンを持って、外へ飛び出した。兵士たちが走り回り、基地の至る所で火が上がっている。ひときわ大きな爆発が起こり、ヘリのプロペラの破片が夜空に舞った。

 子供の頃、教会で聞いた黙示録を彼は思い出した。天使のラッパが鳴らされると、恐ろしい獣がやってきてすべてを喰らい尽くす。

 すぐそばでハンヴィーが爆発する。彼は衝撃で吹き飛ばされた。地面に落ちたアサルトライフルを拾い上げたとき、イチの存在を思い出した。今も営倉に閉じ込められたままだ。

 彼は営倉へと走った。道中には仲間の死体がいくつも転がっていた。アダム、ウィッカー、テレンス、スコット、ロビンソン、ラッセル、そして名前は知らないが見たことのある顔と、顔の判別もつかないほど粉砕された死体たち。

 作戦本部の瓦礫跡を通るときに、何か光るものを見つけた。イチが持っていた折れた剣だ。それを拾い上げ、再び走り出す。

 奇跡的に営倉は無事だった。のぞき窓を叩いて何事か叫んでいるイチに離れるよう身振りで伝えると、扉の上下の蝶番に向かってアサルトライフルの引き金を引いた。蝶番は弾け飛び、扉はただの板切れのように倒れた。

 いまだわめき続けているイチを小屋から引っ張り出し、折れた剣を鞘ごと押しつける。

 ここから早く逃げろ、と彼は叫ぶ。

 イチは首を振って、わずかな刃が根本に残っているだけの剣を鞘から抜いた。

 折れた剣で何ができる、彼はわめいた。早く基地から離れろ。

 そのとき、何かが風を切る音が聞こえた。

 とっさに彼はイチを突き飛ばす。

 プレハブ小屋がハリウッド映画みたいに爆発して、視界が真っ白になった。

 一瞬後、夜空とそれに浮かぶ億千の星を見上げていた。

 倒れているのだ。早く立ち上がらなければ。

 彼は手をつき、身を起こそうとしたが、足に力が入らない。

 自分の身体を見下ろすと、そこに下半身がなかった。真ん中で割れた卵みたいに、ぶつ切りにされた腹から血や内臓がどろりとこぼれ出している。

 何か叫ぼうとしたが、声が出なかった。過呼吸気味になった息が口から漏れるだけ。

 痛みはまるでない。嘘だ。嘘だろうこれは。

 夜空にイチの顔が現れる。泣きそうな顔でこちらを見て。

 彼は何かを言っていた。なんだろう。

 なまえNAMEなまえNAME

 ああ、ローランド・ストウだ。名前は。まだ言ってなかったか?

「ローランド・ストウ」

 イチは彼を抱きしめた。

 震えていた手の感覚はもはやない。今自分がどこにいるのかさえ思い出せない。だが、その暖かさだけはわかっ

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