モアジブ・ブレイクダウン
しばらくモアジブに向けて進んだあと、朱良は岩場の陰に隠れるとすごい早さで煙草を一本吸ってから真っ黒いローブに着替えた。さらに頭から顔面までを覆い尽くす黒頭巾をかぶる。
「何してるんだ?」
「変装だよ、変装。敬虔な教徒の姉弟に偽装すんだ」
「待って、姉と……弟?」
イチは朱良と自分を交互に指さす。
「親子じゃなくて?」
「お前、次それ言ったら両手両足縛って砂漠に捨てっからな」
お前はそのへんの土でも顔にこすりつけておけ、と朱良に頭をはたかれたので、イチは言われた通りにする。
「お前の顔はこの国の人間には見えねえからな。西洋人からしたら、どれも一緒のクソアジア人だろうが、現地人には通用しねえ。ていうか、お前何者だ?」
二日経ってようやく訊かれた。どうでもいいのか、気を遣っていたのかイチにはわからなかった。
「たぶん日本人。覚えてないんだ。十歳くらいのときに気づいたらこの国にいた」
「また大仰な因果をしょってきたものだな」バーチャスが朱良の頭巾から顔を出す。
「バーチャス。お前はそろそろ隠れてろ」
あいよ姉御、とバーチャスはローブの内側にしゅるりと潜り込んだ。
「で、そのウォーロックをたまたま遺跡で拾ったってわけか。アメコミかよ、まったく……日本に帰りたいと思わねえのか?」
「いや特には……覚えてないし。それに俺の家はこの国だから」
「なるほどな」
そう言ってからしばらく無言で二人は歩き続けた。
「……日本に行きたくなったらいつでも言え。モアジブにはCIAも駐留してる。私が口を利きゃあ、お前一人くらいなら送ってやれる」
「……ありがとう」
「……そろそろ街に入るぞ」
モアジブ市の周りは廃材で作ったバリケードで囲まれていた。旧政府軍と思われる武装した兵士が二人、歩哨についている。歩哨は二人を呼び止め、何者かと尋ねた。
今までの粗暴な言動がまるで嘘のように、朱良はおしとやかな口調で、我々は家と親をなくした姉弟で隣の街からやって来ました、と答えた。その姿は弱々しく儚げで、確かに説得力があった。普段の朱良を知らなければの話だが。
何も言わないぞ、とイチは思った。また頭をはたかれる。
訝しげな視線を送られたものの、二人は通行を許された。ラクダを入口近くの厩舎に預けて街へと進む。
遠くから見てもわかるくらいモアジブは大きな街だった。近代的な建物はほとんど見えなかったが、その規模からして大勢の人間が住んでいるはずとイチは考えていた。
だが、街に入った二人の目に飛び込んできたのは、閑散とした通りだった。
大きな通りに当然あるべき人の行き交う姿はまったく見られない。舗装のされていない道で歯抜けに出された屋台は三つしかなく、並んでいる果物や野菜はしなびていた。家々には人の気配がなく、鎧戸が閉められている。屋台の残骸と思しき木材やテント生地が散乱していた。
「戦闘があったのか……?」
呟くイチに朱良は小声で答える。
「いや、建物に銃痕がねえ。何があったのかさっぱりだな。モアジブは安全な街って聞いてたのによ……とにかくCIAのエージェントがいるセーフハウスに行くぞ」
朱良に促されるまま歩き出そうとすると、角から
ソ連製アサルトライフルのコピーをぶらぶらさせながら見回っていた二人は、イチと朱良の姿を認めると、急に顔を引き締め足早に近づいてきた。
「なんかヤバそげだな」
お前、と兵士の一人がイチに向かって叫ぶ。
「外国人だな。何をしている?」
「えっと……」
嘘をつくのが苦手なイチは言葉に詰まる。代わりに朱良があの偽装口調で答えた。
「我々姉弟は隣の街から逃げてきたんです。日本人とのハーフです」
朱良を知らない人間ならばころっと騙されそうな、庇護欲をかきたてられる喋り方だったが、兵士たちにはなぜかまったく通用しなかった。
「テロリストどもが……信じると思うか?」
「おかしいな。魔擬が効かねえぞ」朱良はぼそっと呟いた。
兵士はアサルトライフルの銃口を構えた。二つの照星がイチと朱良を狙う。
「俺がやるよ」イチは呟き返した。
そのままじりじりとこちらに近づいてくる兵士たち。
イチは自分の腰元に手をのばした。
「両手を上げろ!」
兵士が叫ぶのと同時にウォーロックを抜き放つ。抜刀の勢いで衝撃波を飛ばし、兵士たちにぶつける。兵士の一人は上空にライフルを連射しながら壁に叩きつけられ、そのまま昏倒する。武器を取り落としたもう一人は素早く身を起こし、ホルスターから拳銃を抜いた。だが、その引き金を引くよりも早く、額に光弾が命中する。兵士は後ろに倒れ込んだ。
イチはライフル型に変化したウォーロックを血振りのようにぶんっと払う。ウォーロックの口から兵士のアサルトライフルが吐き出された。
「いや、これはお見事」
朱良のローブの袖からバーチャスが顔を出し、感心したように首を揺らす。
「ありがと」
「馬鹿なことを抜かすな。俺の手柄だ」
「ご両人に拍手。まったくクソ見事だ。今の銃声で兵士が集まってくるぞ」
朱良は顔を覆っていた頭巾を投げ捨てると額の汗をぬぐった。
「どこかに隠れねえと……」
こっち、という大声が聞こえた。子供の声だ。
二人が振り向くと、小路の陰で子供が一人手招きをしている。
「こっちだ二人とも、早く!」
イチと朱良は顔を見合わせた後、その小路に向かって走り出した。
「さっきの、陰から見てたよ。強いんだね」
ぼさぼさの髪に、ほつれたユニクロのTシャツと膝の擦り切れたジーパンを履いた少年は二人の前を足早に歩く。時折こちらを振り向く顔は茶色く薄汚れていたが、その目は期待と憧れに輝いていた。
「ここの路地は入り組んでるから、簡単に逃げられるよ。おれはディラン。よろしく」
そう言いながらディランはどこかの家のベランダに勝手に昇ると、どんどん先へ進んでいく。しょうがないので、朱良とイチも不法侵入した。
ベランダをいくつか越えて、自動車が何台も停まっている駐車場を抜ける。それから再び裏路地に入った。
「おい、坊主。私らはラルード・ホテルってとこに行きたいんだが、場所わかるか?」
「知ってるよ……だけど、あんなとこ行ってどうするの? もう廃墟だよ」
「なんだと?」
「マフムード大佐が従業員を全員捕まえたんだ。あそこには誰もいないよ」
「クソ、どうなってやがる……」
「安全な街って話はどうなったんだよ。一体そのホテルに何があったんだ?」
「あったんじゃない。いたんだ」
ディランは立ち止まり、こちらを振り向いた。
「もしかしてホテルにいたアメリカ人を探してる?」
「知ってるのか?」
「マハンさんの家にいるよ。案内しようか」
「ああ。他にそれを知ってる奴は?」
「マハンさんの家族だけだよ」
そこでイチは疑問を感じる。
「ディラン、お前はどうして知ってるんだ?」
「ひみつ」
◇
迷路のような裏路地はディランの道案内がなければくぐり抜けられなかっただろう。時折、大通りの方から兵士たちの怒鳴り声が聞こえてきたが、イチたちが顔を合わせることはなかった。
マハン・アーマドの家は細長い路地に面した二階建ての家だった。白塗りの壁にある二つの窓は爆撃でガラスが割れないようガムテープが貼られてある。
ディランはその扉を叩いた。しばらくしてから、鍵の開く音がして、扉がほんのわずかだけ開いた。その隙間から老いた瞳がこちらをうかがっている。
「ディランだよ。ここにアメリカ人がいるでしょ。お客さんだよ」
マハン・アーマドと思しき女性はあわてて扉を閉めようとしたが、すかさず朱良が靴を突っ込んだ。
「安心しな。私らは敵じゃない。ケラー・ストーンの仲間だ」
しばらく逡巡した後、マハンは扉をゆっくりと開いた。
「私は朱良反。こっちはイチだ。ストーンはどこに?」
「あなたたちは何しに来たの」
震える声でマハンは尋ねる。ストールを巻いた彼女は五十代ほどだろうか。実年齢よりも老けて見えた。イチはしゃがみこんで、マハンの手を握った。
「安心して。あなたたちに絶対に危害は加えない。この女の人は信用していい人だ」
お前な、と朱良は自分の額を押さえて天を仰いだ。
「よくそんな恥ずかしいことを真顔で言えるな。さっさと行くぞ」
ストーンは二階にいるらしい。ディランに礼を言って別れを告げ、二人は階段をのぼった。マハンとその子供らしき若い女の子が心配そうに階下からこちらを見守っている。
「ストーンってのは誰なんだ?」
「CIAの上級工作員。私ら魔擬使いと協力して、契約者を追い詰めるのが仕事だ。私らの存在はCIAでも一部の人間しか知らないから、市内の
二階の部屋の扉には、元の部屋の主の名前なのか、ワリードとペンで書かれていた。
その扉を躊躇なく、朱良は開く。
「ストーン、入るぞ」
朱良は動きを止めた。
白人が一人、拳銃をこちらに構えている。
イチは疾風のように朱良の前に飛び出した。素早く抜き放たれたウォーロックが、
唖然とするストーンを尻目に、イチは拳銃を吐き出させた。部屋の隅に拳銃が転がる。
ちっとウォーロックは舌打ちした。
「こんな一瞬では味見にもならん」
「しょうがないだろ……」
「今度は静かにやったな。偉いぞ」
ばんばんと朱良はイチの背中を叩いた。皮肉を言われたような気もするが、褒められて悪い気はしなかった。
「た、大佐が差し向けたのか……」
ストーンはつたないアラビア語で漏らす。朱良は首を振った。
「朱良反、
だが、ストーンの目からは猜疑の光が消えない。怯えたように壁際に後ずさり、後ろ手で窓を開けようとした。
「ああ、待て待て。私は信用できなくても、こっちは違うだろ」
朱良はイチを引っ張り出し、ストーンに突きつけた。
「こいつはかの有名な
「いやあ、なんか照れるな。どうもどうも」
イチは能天気に頭を掻いた。
「
「なんか失礼なスパイだな」
「正当な評価だ」
朱良は扉をばん、と閉めた。
「わかっただろ。大体、私が契約者だったら、こんなとこまで来ないで下の家族とお前諸共この家を吹き飛ばして、今頃駐車場かなんかにしてる。さあ、この街で何があったのか話してもらおうか」
ああ、と頷いたストーンはようやく落ち着いたのか、木製の椅子を引き寄せるとそこに腰かけた。少し空を見て、話すべきことを頭の中でまとめた後、口を開く。その口から出たのは英語だった。
ちょっと、とイチは朱良の裾を引っ張った。
「俺、英語わかんないんだけど」
「ああ? まったく、世話の焼ける奴だ……
そう言うが否や、朱良はイチの腰に手を回して抱き寄せると、その唇に自分の唇を押しつけた。突然の朱良の奇行に、イチは塞がれた口でんーんーと悲鳴を上げる。数秒後、自分の腕を使って押しのければいい、と気づき、実行に移した。
うはあ、と膝に手をつき、換気するみたいに新鮮な空気を吸い込む。
「おめでとう。これでお前は言語の壁を超越したぞ」
「何すんだよ! 初めてだったんだぞ!」
「女学生みたいなこと言ってんじゃねえよ。私だってしたくてしたわけじゃねえんだ。他人に万能語習得の魔擬を移すにはこれしか方法がねえんだよ。魔法と違うんだ」
あの、とストーンは手を上げた。
「続きを話してもいいか」
「ああ、話せ話せ」
「え、ちょっと!」と抗議を続けようとしたイチの口を、朱良は今度は手で塞いだ。
「では」とストーンは咳払いした。ストーンは茶色く汚れたワイシャツに薄青色のスーツズボンという典型的なホワイトカラーの格好だった。かつては両方とも糊が効いていたのだろうが、今はぼろきれのようにしわだらけで茶色く汚れている。
「現在この街を統治しているのは、アムジャド・マフムードという元秘密警察の大佐だ。旧政権の崩壊後はこの街の行政を任され、CIAの
その言葉の一つに、イチは声を荒げた。
「戦後統治? まだ戦争は終わってない。あんたたちが始めたんだろ」
「やめろイチ。ストーン、話を続けろ」
「だが、一週間前、一人の客人が大佐を訪ねて、その日からすべてが変わった。口ひげをたくわえた初老の白人男性で、白いシルクハットに白いタキシードを着ていた……まるでダブルオーセブンの敵役みたいな気取った奴だった」
クソ、と朱良は悪態をついた。
「話が見えてきたぞ。そいつがやってきてから、そのマフムードって大佐の様子がおかしくなったんだろ」
「ああ」
「大佐だけでなく、兵士やCIA職員も」
「あなたの言う通りだ。一体、何者なんだあいつは?」
朱良は首を振った。
「私も本名は知らねえ。奴の通り名はゴールドフィッシュ。幻惑の魔法を使う契約者だ」
「契約者……嘘だろ……」とストーンは頭を抱えた。
「しっかりしろ。この街には魔擬使いが一人いたはずだ。猫屋敷・ウォーカー・ルカだ。あいつはどうした?」
「その契約者が来る前日にモアジブを発った……この街の現状は知らないはずだ」
「クソ……ゴールドフィッシュが来てから、具体的に何が起きたんだ?」
「……基本的には何も変わらない。だが、警察機構だけが狂い始めた。潜在性のテロリストだとして、市民を次々に庁舎に連行していったんだ。俺も身の危険を感じて、ここに逃げ込んだ。普通だったら拘束された人間はすぐに釈放されるか、もっと大きな街の刑務所に移送されるはずだが、大佐は人を吸い込むだけ吸い込んで、誰一人吐き出さなかった…………恐らく……彼らはもう……」
そのとき、陶器の割れる音が部屋に響いた。振り返ると、床にはコップの破片と中身の水が散らばり、震える身体でマハンが立っていた。
「う、嘘……嘘ですよね……」
マハンは魂の抜けた様子でよろよろと朱良にしがみついた。コップの欠片を踏みしめた足裏から血が流れ、床に点々と赤い痕を残していた。
「息子が……ワリードが三日前に連れて行かれてから帰ってこないんです……あの子を……助けてください……」
朱良はマハンの肩を優しく掴み、自分から引き離した。イチを振り返る。
そしてこう言った。
「戻るぞ」
イチは内側から溢れ出る怒りを抑えなければならなかった。自分の激情を鎮めるように拳を強く握りしめた。
「戻る? どこに? 俺はどこにも行かない。この人の息子を……捕まった人たちを取り返す」
イチの言葉には固い決意が滲んでいる。朱良は溜め息をついた。
「お前の肩に乗っかってる頭は飾りか? たった一人で何ができる? 大体そんな折れた魔剣一本で、邪神と契約した人間に敵うわけねえだろ。契約者と戦うことに比べりゃな、お前が今まで戦場でやってきたことなんて全部ままごとだ。それに、捕まった奴らはもう……!」
ああっ、とマハンはその場に泣き崩れた。イチはマハンに近寄り、ゆっくりと立ち上がらせる。
「そんなの確証があるわけじゃない。安心して、あなたの息子は必ず俺が助け出す」
「お願いします……お願いします……息子に……ワリードにこれを……私からと言えばわかります……」
マハンは鞘に入った一本のナイフをイチに手渡した。柄には教義の一句が風景画のように彫り込まれている。
「わかった。……朱良、あんたが止めようが関係ない。苦しんでる人を見捨てるなんて、俺にはできない」
「また恥ずかしいことを真顔で言いやがって……もういい、私の見込み違いだったみてえだ。少し眠ってろ」
朱良が右手をかざして魔擬を振るう。イチはとっさにウォーロックを抜いてそれを弾いた。目に見えないエネルギーを食らった壁が音を立ててえぐれる。漆喰の欠片が部屋中に飛び散った。
その隙にイチは朱良の脇をすり抜け部屋を出る。一段飛ばしで階段を走り降りた。
「待て!」
背後から聞こえる朱良の制止を無視して、エントランスを抜ける。
ドアノブに手をかけ、玄関の扉を開く。
陽光が差し込む。
飛び出したイチを出迎えたのは、目が痛くなるほどの逆光と、二十を越えるアサルトライフルの銃口だった。
およそ数十人の武装した兵士たちが太陽を背負って家を取り囲んでいる。おそらくマハムード大佐の配下だろう。顔に暗くついた影のせいで表情はわからない。
「最悪だ……」
追いついた朱良が背後で呟いた。
死角に潜んでいた兵士たちが家の扉を乱暴に閉め、逃げ場を塞いだ。二人に銃口を押しつける。イチと朱良は両手を上げた。
「一体どうやってここがわかったんだ……?」
「私が知るか……」
「兵士の陰を見ろ」
ウォーロックが低く呟く。
その言葉に従って、生け垣のように立ち並んでいる兵士の背後に目を凝らすと、小さな影が見えた。
ぼろぼろの服を着たディランがぶすっとした顔で口を尖らせていた。
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