アヴェンジャー・イン・ザ・ダーク
イチは振り向いた。アンマールが指しているのは一軒の大きな民家だ。他の家と比べれば豪華といえなくもないが、地方都市に行けばいくらでも目にする二階建ての建物だ。奇妙だったのは、この家だけ一つも明かりがついていないことだった。ベランダの鎧戸は固く閉じられ、車庫のシャッターも下りている。
「あの鷲だ……! あそこにアル・アリ師がいる!」
アンマールはその家の屋上に震える指を突きつける。角に石膏でできた鷲のオブジェが据えられていた。
「この前来たときはあれが本物だと思ったんだ。だから忘れてた……あれは置物だったのか……」
その瞬間、電動じかけのシャッターが駆動音を立てながら開き始めた。完全に開ききるのを待たずに、一台の白い乗用車が車庫から飛び出す。
ディランはウォーロックに手をのばす。
だが、それよりも一瞬早く、イチがウォーロックの柄を握り、鞘だけをディランの腕に残して折れた大剣を振り抜いた。
同時に放たれた衝撃波が地面を走る。衝撃波は土をえぐって乗用車にぶち当たり、車体を横転させた。逆さまになった車のタイヤがむなしく回転を続ける。
真っ先に駆け出したのはディランだった。ウォーロックの鞘を投げ捨て、まっすぐに横転した車に向かう。よろよろと這い出してきた若い運転手の顎をブーツで蹴り飛ばすと、後部座席のドアにつかみかかった。遅れて追いついたイチがその身体を後ろから羽交い締めにして、ドアを開ける前に車から引き剥がした。
「やめろバカイチ! 離せ!」
持ち上げられたディランは何度もイチに自分の踵をぶつけたが、イチは決して手を離さなかった。
その隙にルカがドアを開け、中から一人の初老の男を引きずり出す。胸元まで垂れるほどの豊かな髭には白髪が混じり、深いしわとたるんだ皮膚は男を実年齢以上に老けて見せる。アル・アリの顔を目にした瞬間、ディランはいっそう強く暴れだした。
だが、ルカがもう一人を車から引っ張り出すと、ディランは振り上げた腕を宙で止めた。イチも呆気にとられて、ディランを離した。
それはディランと同い年くらいの少年だった。上等な白いシャツと半ズボンを身に着けた少年はルカに促されておとなしく車から出てきた。まるで夢の中にいるみたいに、ぼんやりとした目をしている。
ルカは青白い顔をしたその少年を車の脇に立たせ、地面にひざまずいているアル・アリに向き直った。
「『神に導かれし戦士たち』の最高指導者、ワトバーン・アッザーム・アル・アリだな。私たちは君に質問がある。虚偽の回答は認めない」
「アメリカか? ロシアか? いや、お前たちは日本人だな。一体何を?」
「君たちは屍兵を所有していた。どこで手に入れた?」
「なんの話をしているのかわからんな」
「とぼけるな! 商品の取引のために、君は製造場所で契約者と会ったはずだ! 言え、奴らはどこにいる!」
「魔擬使いか……確かに屍兵を奴らから貰い受けたのは認める。だが、製造場所までは知らん」
「嘘をつくな!」
そのとき、がちりという拳銃の撃鉄を上げる音がした。全員が一斉に振り向く。
「動くな!」
ディランが運転手から奪ったスペイン製拳銃を少年のこめかみに突きつけていた。少年はただ無表情にディランのされるがままになっている。かすかに震えているのはディランの持つ銃把の方だった。押しつけられた銃口と少年の短い髪がざらざらと擦れ合う。
「やめろ。息子に手を出すな……!」
アル・アリは手をのばすしかできなかった。動けないのはイチやルカも同じだ。ディランの指はすでに引き金にかかっており、わずかなきっかけで銃弾が発射されるだろう。あの少年の命は、今や一キロほどの重さの引き金にかかっている。
「やっぱりな。お前の子供だと思ったよ」
「ディラン、馬鹿なことするな!」
「うるさい!」ディランはイチに怒鳴り返す。
「何が望みだ……契約者の居場所を言えばいいのか」
「そんなもんどうでもいい」ディランは吐き捨てた。
「謝れ。俺たちの家族と俺たちの家に」
アル・アリは困惑したような表情を浮かべた。イチたちを見回す。
「一体、この子供は何を言っているんだ」
だが、イチたちにもわからない。わかるはずがないのだ。いくら尋ねてもディランは誰にも何も言わなかった。ただ一人、暗い憎悪を胸の内で燃やしていた。
誰にとっても意外なことに、沈黙を破ったのはアンマールだった。
「アル・アリ師、彼はジェリタ族の生き残りです」
ジェリタ族。その部族の名はイチにも聞き覚えがあった。旧政権時代以前からずっと山岳地帯の奥で自分たちの風習と血筋を守りながらひっそりと暮らしていた、独自の宗教を信仰する少数民族だ。
そう、暮らしていた。今や、この地上に彼らの血を継ぐ者はいない。一年前、過激派の武装組織が武器を持たぬ彼らを襲撃し、一人の生存者も許さず虐殺したのだ。
その組織の名前は……
「……馬鹿な。一人残らず殺せと命令したはずだ……」
「ああ、そうだよ。一人残らずみんな死んだよ。俺以外みんな死んだ! みんな! 父さんも母さんも妹もおじさんも隣に住んでた兄ちゃんも、みんな死んだ! お前らが殺したんだ! 自分だって家族があるくせに! なんでそんなことをした! 教えろ!」
およそ八百人からなるジェリタ族は『神に導かれし戦士たち』によって一方的に殺された。あまりに大量の血が流れたため、一年経った今でもあの一帯の地面はどす黒いままなのだと、おどろおどろしく語る不心得者もいる。だがあのとき、おびただしい量の人血と生ぬるい肉塊が彼らの住んでいた土地を犯し尽くしたことは間違いない。
ディランはその中で生き残ったのだ。
親兄弟や仲間の死体の中でたった一人で生き延び、たった一人で今まで生き抜いてきた。あの大地で生き残ったのが自分一人だけと知ったとき、ディランの身体は鮮血にまみれていただろう。そしてその血は今でも消えずにディランの心に染みついて、ディラン自身を終わりのない闘争へと掻き立てる。血は際限なく自分を蝕み、責めたて、ときには死ねとすら叫ぶ。もはやそれが自分の血なのか彼らの血なのかわからない。
イチにはそれが理解できた。
イチも同じだから。
長い沈黙の後、アル・アリはうつむいたまま口を開いた。
「……この国は、この世界は我々の神のものだ。異教徒の存在は許されない」
「もう一度言ってみろ」ディランは冷たく言い放った。自分の心が命じるままに、アル・アリの息子を前に突き出し、その後頭部に銃口を押しつけた。
「自分の子供の前で、もう一度言ってみろ!」
「やめろ! やめてくれ頼む!」アル・アリは目に涙を浮かべ、ディランに向かってひざまずいた。そして地面に自分の額をひたすらこすりつけた。神に向かって拝むように。
「お願いだからその子だけは……」
頼む、と絞り出すようにアル・アリは言った。地に這いつくばり、子供の解放だけを一心に乞い願うその姿はテロを指揮する武装組織の最高指導者などではなく、ただの一人の親だった。
その光景を目の当たりにしたディランは一瞬ひるむ。指が引き金から離れる。
ルカはその隙を見逃さず、入れ替えの魔擬を発動した。
「
一瞬で、ディランの手の中から拳銃が消える。代わりに握られていたのは、さっきまで地面に転がっていた木の枝だった。
イチが二人に飛び込み、ディランをアル・アリの息子から引き離す。息子の腕がやけに冷えきっていることに疑問を挟む余裕はなかった。
ディランは仇を求めてがむしゃらに足掻く。イチは膝をついて、その小さな身体を押さえ込むように強く抱きしめた。そうしないとディランが消えてしまう気がした。
「止めんなよバカイチ! こいつを殺すんだ! 殺す!」
ディランはイチの背中を力任せに何度も叩いた。その激憤はむしろ自暴自棄に近かった。今のディランに手榴弾を持たせたら、ピンを引き抜いて自分ごとアル・アリに抱きつくだろう。
「そんなことしても意味ない。やめろディラン!」
「嫌だ! こいつらは絶対に許さない!」
「許さなくていい! ずっと憎んでてもいい。だけど、一度殺したらもう後戻りできなくなる。殺したって、お前のその気持ちは何も変わらない。だけど殺した死人は何年、何十年経っても夢や現実に現れてお前を縛りつけるんだ。お前はいつまでもその影に怯え続ける。人を殺した自分自身に怯え続けなきゃいけなくなる。そうしたら、幸せな人生なんか二度と送れなくなるんだぞ……」
「幸せ……そんなもん来ない。あの日からずっと俺は死んでる! 俺が幸せになるなんて絶対にありえない!」
「来る。絶対に来る……! それまで俺が守ってやる。お前が幸せになる日が来るまで、俺がずっとそばにいる。ずっとそばで守ってやるから、だから……お前だけは向こう側に行かないでくれ…………頼む、お前だけは……」
ディランはイチに抱きしめられたまま、立ち尽くした。
欠けた月と星々の下で爆音と銃声が鳴り響いている。夜空に輝く彼らは下界で殺し合っている人々に気づいていない。死んだ命は空に昇るわけではない。地に還るわけでもない。命はただ失われ、殺した者の手に血の感触だけを残して消えていく。
ディランは震えているイチを突き飛ばした。
「馬鹿だ」と呟き、しゃがみこんで自分の両膝に顔を埋めた。それはイチのことなのか、自分のことなのか、誰にもわからなかった。ディラン自身にさえも。
アル・アリはあえぎながら地を這い、自分の息子までたどり着くと、その小さな肩にしがみついた。それでもなお少年が表情を変えることはなかった。まるで一切が自分に関係なく、ただつまらない映画を見ているようだった。
ルカはアル・アリに冷たく言い放った。
「アル・アリ。君には人道上の罪をすぐに償ってもらう。だが、まずは契約者の居場所と目的が先だ。ゴールドフィッシュ、ブラッドサマー、雷電喜之助……奴らは今どこにいて、この国で何を目論んでいる」
「私は……私は本当に知らない」
「あくまで隠し通す気か……」
ルカはそう言うと、アル・アリの隣にいる息子に視線をやった。それから魔擬を発動するため、ゆっくりと身構えた。
「やめろ……息子に手を出すな」
「ルカ!」とイチが咎めるように叫ぶ。ルカは首を振った。
「安心しろ。その子供に危害は加えない。今から使う魔擬では虫一匹殺すことなどできない。だが、アル・アリ。君は素直に話さなかったことを後悔するだろう」
一瞬、アル・アリは何が起きたのかわからない、という表情を浮かべた。だが、すぐにその顔が恐怖に歪む。両目を見開き、何もない虚空に向けて手を突き出す。
「やめろ! やめてくれ! やめろやめろやめろ!」
アル・アリは狂乱をきたし、目の前の何かを消し去ろうと腕を振り回す。白く濁った瞳を強くつむり、耳を塞ぐ。大声を上げる。頭を抱えて地にのたうち回る。それでも彼が見ている何かを振り払えない。
「記憶再生の魔擬……魔法とは違い、一瞬の記憶しか再生できないが、君にはそれで充分なはずだ」
そしてイチはアル・アリが見ている映像に気がついた。それはもだえ暴れているアル・アリの影に映写機のように映し出されていた。
白い庭をこちらに向かって走ってくる少年の姿。今ここに立っている無表情な顔からは想像もできないほど明るい、太陽のような笑顔を浮かべ、いつかのアル・アリに向けて手を振る。一瞬後、弾丸がその胸を貫いた。背後から放たれた弾丸は幼い肉片を弾け飛ばしながら、前胸を突き破る。コマ送りのように吹き出た血潮が均等に刈り揃えられた芝生に撒き散り、少年は糸を切られたように己の血肉の中へと倒れ込んだ。
それは何度も繰り返される。何度も何度も……
「やめろおおお」
アル・アリは頬の内を噛み千切った。泣き叫ぶ口からその血が垂れていた。
「この戦争で息子を失った君が契約者との取引で対価に選んだのは『神の尖兵』などではない。死んだ自分の息子に死霊魔法をかけることだった。一体誰に、どこで殺されたのか、私は知らない。だが、喋らなければ、君はそのときの光景を永遠に見続けることになる」
アル・アリは瀕死の獣のような唸り声を上げながら、自分の両目に指を突き刺した。眼球の潰れる嫌な音がして、眼窩から血が流れ出した。アル・アリはその激痛に強く叫ぶ。
「目を潰しても無駄だ。この魔擬は終わらない」
「いい加減にしろ!」イチはルカにつかみかかった。
「この魔擬を今すぐ止めろ! 今すぐにだ!」
「たとえ悪党でも苦しむ姿は見ていられないか? そんな綺麗事を言っている場合か! 奴らを捕まえるためには手段など選んではいられない。アル・アリ! 私を憎むなら憎め! 恨むなら恨め! だが、私は
イチは怒りに任せてルカの胸ぐらを離した。その理屈に納得したわけではなかった。
ディランが泣いていた。
イチが腕をのばすと、ディランはひしとつかまった。その頭に手を乗せ抱き寄せる。
約束したから。
アル・アリはいっそう大きな叫び声を上げ、芋虫のように地面を転がりまわった。
やめろよ、とディランは涙に湿った声で何度も呟いたが、ルカは魔擬を止めなかった。
やがてアル・アリは土をかきむしりながらルカにうめいた。
「話す……話すから…………止めてくれ……これを……早く」
記憶再生の魔擬が効力を失う。アル・アリは大きく息を吐いた。地面をかきむしったせいで指の肉が剥がれ、血が滲んでいる。
「契約者はどこにいる。この国で何を目論んでいるんだ」
アル・アリはうずくまったまま、自分の肉体と精神を襲っている激痛に呻き声を上げた。
「答えろ!」
「…………奴らは……邪神とやらを復活させると言っていた。そのために使うんだと、折れた剣の刃を私に見せた……長い、刃……」
イチの腰元で一瞬ウォーロックがぶるりと震えたのがわかった。ディランも感じたようで、まさかという顔でウォーロックを見つめる。
「居場所はどこだ。拠点があるはずだ。屍兵を製造し、奴らが隠れるための」
「……遺跡だ……砂漠の中に遺跡が……場所は――」
その瞬間、アル・アリの息子が突然動き出した。虚を突かれて誰も止められなかった。
死んだ息子はアル・アリに飛びかかる。そして自分の父親の喉笛を食い千切った。
ごぶあと喉に空いた穴から血泡が吹き出る。息子は構わずのしかかり、飢えた肉食獣のようにひたすらアル・アリの喉元に食らいつく。
真っ先に動いたのはルカだった。ヤナギの手から拳銃をもぎとると、アル・アリの息子の頭部に向けて引き金を引いた。九ミリ弾が少年の頭蓋を吹き飛ばす。脳髄と真っ赤な血を撒き散らしながら、少年はどさりと倒れ込んだ。
ルカは拳銃を投げ捨てると、息子をどかし、アル・アリに顔を近づける。
「まだ死ぬな! 遺跡はどこにある!」
呼吸をしようとするたび、アル・アリの喉からはごぼごぼと血液があふれでた。ぐちゃぐちゃに噛み切られた筋肉の間からは白い骨がのぞいている。ずたずたにされた声帯でアル・アリは呟いた。
「……りゅう、が……」
そして、アル・アリは息絶えた。死んだ息子の手にかかり、『神に導かれし戦士たち』の最高指導者は永遠にこの世を去った。彼の魂が彼の信じた神のもとに行くことはありえない。なぜなら、この世界に神々はいない。
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