誰のものでもない世界

「おっ、ちょうどいいところに出たじゃねえか」


 血と泥に汚れた顔で朱良はにやりと笑った。


「イチ、大丈夫か!」ルカが走り寄って、安心して倒れかけたイチの身体を支えた。

「……ルカ、朱良と……」

「……恥ずかしながら幻惑魔法にかかっていたようだ。すまない」

「謝ることじゃないだろ……俺はもうどっちかが死ぬんじゃないかって」

「この私が殺されるわけねえだろ。忘れたのか? 煙草以外で死ぬ気はねえ」


 朱良はそう言って、くしゃくしゃの煙草を咥え、魔擬で火を着けた。


「惚れ惚れするようなタイミングだ、姉御」ぼろぼろのバーチャスがしゅるりと朱良の背中を這い登り、定位置の肩に身を置いた。


「よお、バーチャス。まだやれるか?」

「もちろん」


 ようやく身体の芯にまで力が戻り、イチはルカの肩から離れた。「もう大丈夫だ」ルカに笑いかける。ルカはそれに耐えられないという風に一瞬顔をそむけたが、すぐに向き直り、まっすぐイチを見つめ返した。


「君にウォーロックを任せる。勘違いするな。今回だけだぞ」

「……ありがとう」


 さて、と朱良は煙草を咥えたまま、肩を回した。


「雷電喜之介は紹雄とタスクフォース0が片付けたみたいだな。あとはゴールドフィッシュとブラッドサ――」


 朱良の言葉の途中で、瓦礫の山が爆発した。その煙塵を割って、矢のようにブラッドサマーが飛び込んでくる。


「朱良朱良朱良朱良反ぅぅぁあ!」


 ブラッドサマーの構えた白い突撃槍ランスの切っ先はまっすぐに朱良に向かっている。朱良はとっさに魔擬で炎球を生み出した手を、その穂先にぶつけた。炎球の熱波が飴細工のように突撃槍ランスを溶かし、その炎が持ち手に達する前にブラッドサマーは大きく飛び退いた。


「やっとメインディッシュが来た! これって運命?」

「こういうのはな、宿業ってんだ。このクソ戦闘狂バトルジャンキーが」


 行くぞ、と朱良はブラッドサマーに向けて地を蹴った。即座にイチも続く。


 後方からルカが放った無差別型の攻撃系魔擬により、三人の会敵地点で地割れが起きる。イチは無事な足場を蹴って跳ね、ブラッドサマーに向けて衝撃波を放った。魔法でそれを叩き割るブラッドサマーに反撃する暇も与えず、今度は朱良が魔擬を撃ち込む。


 ルカが遠距離系の魔擬で支援する中、三人は激しく入れ替わりながら嵐のように戦う。イチはウォーロックにバーチャスを飲み込ませて炎の刃を振るい、ルカや朱良の魔擬によって変動する場の状況に合わせて、ときにバーチャスを吐き出させて焔龍サラマンダーで直接叩くのに任せた。


 イチは吹き出す汗と自分の血で滑りそうになるウォーロックを離さないよう、握り潰すようにして振るう。朱良も吸いかけの煙草を吐き捨て、必死に魔擬で食らいつく。


 ただ一人、ブラッドサマーだけが笑っていた。誕生日と祭りイードが一緒にやってきたというように、腹の底から笑いながらダンスを踊っていた。


「最高だねえ! こんな日々が永遠に続けばいいのに!」

「何が面白いんだ!」イチの斬撃をブラッドサマーは軽やかなステップで避ける。

「無駄だ。こいつはやればやるほど、頭のネジが外れてく。長期戦は不利だ。さっさと決めるぞ」


 すれ違いざまに朱良はイチに耳打ちする。交差した二人は再び離れ、ブラッドサマーを挟撃した。だが、ルカの魔擬で避ける位置を限定されているにも関わらず、ブラッドサマーは二人の攻撃を紙一重でかわし、至福の表情でくるくると舞っている。


「ああ、朱良反とまたやれるなんて……! 人生最高!」


 駄目だ。絶望がイチを襲う。朱良とルカが加わっても、まるでこの狂戦士バーサーカーを倒せる未来が見えない。どれだけ強力な魔擬をぶつけても、完璧な連携で追い詰めても、ブラッドサマーをただ喜ばせるだけで、最後のひと押しにならない。


 そのとき、紹雄の声が響いた。


「朱良さん!」


 こちらに走ってくる紹雄と、その背中を遅れて追いかけるタスクフォース0の隊員たち。雷電喜之介を捕縛し、態勢を立て直した彼らが助太刀をしようとやってきたのだ。


 イチの中に一脈の希望が芽生える。

 質は敵わなくとも、これだけの物量で押せば……


 だが、ブラッドサマーは正反対につまらなそうな顔を浮かべた。先程までとは一転、もはや悲しげともいえる表情で呟く。


「そうだね。楽しい時間はいつか終わる……永遠なんてないからね」


 ああ、とブラッドサマーは頭を掻きむしる。


「駄目! 無理! やめてよ、邪魔しないでよ! こんなのやっちゃったあとに、あんなカスみたいな一般人相手になんかできないよ! ただでさえわけわかんないガキ二人が混ざっちゃってるのに、これ以上不純物なんて……無理無理! 耐えきれない! だから嫌なんだよ! ――……ああ、そうだ。そうか、そうだ」


「……朱良反」とブラッドサマーはゆらりと朱良を指さした。突如、狂った様子を見せるブラッドサマーを警戒して距離をとった朱良は怪訝そうに眉をひそめる。


「安心して。最高に楽しい瞬間のまま、終わらせてあげるから…………」

 ――泡沫の十字架ブロークン・アロー。ブラッドサマーはささやいた。


「それは使うなブラッドサマー!」遠くから聞こえたゴールドフィッシュの悲鳴に、イチたちは振り返る。それが間違いだった。完全に発動する前に、ブラッドサマーを止めるべきだった。

「もう遅いよ」


 ブラッドサマーは穏やかに微笑む。その笑顔にひびが入る。熱せられた陶磁器のように顔面が、腕が、足が、全身がひび割れ、その割れ目から白い光が漏れ出す。


 米軍基地を消滅させた魔法を再び発動しようとしているのだ。


 今、あれを使われればゴールドフィッシュや、イチたちだけでなく、どこかに囚われているであろうディランらエデンアドンの人間まで塵となって、この遺跡ごとこの世から消えるだろう。あとに残るのは砂塵と墓標のようなきのこ雲だけ。


 ブラッドサマーという存在の外殻がぴしりぴしりと剥がれ落ちていく。そのたびに、その内に宿している太陽がその身をあらわにする。


 終末の予感を察知したタスクフォース0が発砲する。音速を越える弾丸が次々とブラッドサマーの身体を削る。


「やめろ撃つな! 発動が早まるだけだ!」


 空いた弾痕から余計にブラッドサマーの身体がこぼれていく。わずかに残った口元はいまだ笑みを浮かべている。


 こんなところで終わりなのか、イチが唇を噛み締めた瞬間、ウォーロックを握っている右手がぴくりと動いた。次の瞬間、右手が意志を持ったかのようにぶんと上がる。そのままイチを引きずって、ウォーロックはブラッドサマーへと突進する。


「イチ何してるんだ!」ルカは驚愕の声を上げる。

「俺じゃない……ウォーロックが……! 何する気だよ!」


 イチは自分を引きずるウォーロックに叫んだ。イチの身体に逆流したウォーロックの意志は、今やその右腕までを完全に支配下に置き、イチを無視してブラッドサマーに向かっていく。


 ウォーロックはぼそりと呟いた。

「なんだって?」

「何言ってんだウォーロック……まさか……!」


 眼前に迫るブラッドサマーの身体はもうわずかな欠片しか残っていない。もはやそこにあるのはブラッドサマーという一人の契約者ではない、ただ眩しく輝く原初の太陽。ウォーロックはイチを無視して、初めて自らの意志で鋼鉄のあぎとを開いた。


 ブラッドサマーの最後の一片が剥がれ落ちる。


 同時に、ウォーロックがその白熱した超常の恒星を飲み込んだ。


「ウォーロック!」


 そして、泡沫の十字架ブロークン・アローが爆発する。


 低く響く爆音。爆風によって丸太のように膨らんだウォーロックが赤熱化し、異音を立てて震える。


 ウォーロックの身をもってしても防ぎきれなかった衝撃が波紋となってあたりを走る。その場にいた全員が強風にあおられた枯葉のように舞い飛ぶ。イチも全身の骨が叩き折られたような痛みとともに宙を吹き飛んだ。

 広間が鳴動し、天井から岩の欠片が落ちてくる。衝撃で壁が崩れ落ち、地面がごうごうと揺れる。全身の激痛の中で、イチは自分の手の平が真っ赤に焼けただれているのを見た。


 よもや崩落するかと思われるほどの揺れはやがて収まり、地響きは彼方へと薄く消えていく。


 他の者と同じように、激痛にうめきながら立ち上がったイチは自分の目にかかる血をぬぐう。


 広場の中央にウォーロックが落ちている。


「ウォーロック!」


 イチは走る。足がもつれる。鼻骨が折れて、鼻腔に血が溜まっている。眼球が痛む。呼吸をするたびに、焼けた肺が引きつるのを感じる。それでも必死で走った。

 あいつが邪神だろうと、なんだろうと、そんなこと知るものか。あいつはこの四年間一緒に旅をしてきた仲間だ。さんざん馬鹿にされてきた、命に関わる嘘をつかれたこともあった。だけど、ずっとイチに力を貸してくれた。


 ずっとたった一振りのイチの相棒だった。


 イチは転げるようにしてひざまずき、わずかに膨らんでいるウォーロックを持ち上げる。


「おい、ウォーロック! 返事しろよ!」


 だが、ウォーロックはぴくりともしなかった。まるでただの折れた剣だというように、一言も発さない。


「おい、冗談だろ? いつもみたいに俺を馬鹿にしてるんだろ! 騙されたよ、俺は馬鹿だよ! だから、なんか言えよ!」


 死んだ獣のように、だらりとウォーロックのあぎとが開く。


 白濁した粘液とともに中からこぼれおちたのは、小さな赤ん坊だった。


 う、うぎゃあ、あぎゃあ、と赤ん坊は泣きわめく。ウォーロックは沈黙を続けていた。わずかに残っている刀身の根本は氷のように冷たく、それはいつもどおりのはずなのに、イチには死体の冷たさに感じられた。


「本当に……死んじゃったのかよ、ウォーロック……」


 ウォーロックは答えない。赤ん坊となったブラッドサマーの泣き声だけがあたりに響いていた。

 膝をつき、ウォーロックを握っていることしかできないイチの肩を朱良がそっと叩いた。


「……立て。まだ最後の一人が残ってる」


 ルカがよろよろと寄ってきて、ゆるやかだが確実に成長し、もとの姿に戻りつつあるブラッドサマーを魔擬で拘束した。白い繭に縛られたブラッドサマーはごろりと転がされ、涙を流しているイチを幼い少女の顔で不思議そうに見つめた。


 イチは目元をぬぐってから、朱良を振り返りわずかに頷く。


 広場にいた者たちが呻きながらも、それぞれなんとか身体を起こし始める。その中にはゴールドフィッシュもいた。一足先に立ち上がったタスクフォース0の隊員たちはライフルを拾い上げ、次々とゴールドフィッシュに向けた。


 徐々に自らが置かれた状況を理解し始めたのか、震える膝で立つゴールドフィッシュはゆっくりとあたりを見回した。整えられていた髪型は土で汚れ、純白のタキシードはぼろきれのようだった。


「お前の薄汚い夢もここで終わりだ。ゴールドフィッシュ」朱良は割れた煙草を引きちぎって、半分になったその先に火を着けた。「他の二人はお縄頂戴。ブラッドサマーもなしに、この人数に敵うと思うか?」


 崩壊した広場の真ん中で、ゴールドフィッシュは乾いた笑いを漏らす。泡沫の十字架ブロークン・アローの衝撃で天井の一部が崩落して、そこから差し込む陽光がスポットライトのようにゴールドフィッシュを照らしていた。


「お互いにどれだけの人間を踏みつけて、ここにたどり着いたのだろうな、朱良反。ここにいる人間すべてがこの世界の真理の落とし子だ。我々は謀り、偽り、争い殺し合ってきた。かくも人は弱く、愚かな存在だ。私も含めてな…………砂漠の停戦者デザートピジョン、君に一つ預言を授けよう。たとえ君がどれだけ奮迅しようとも、人が人である限り、争いは終わらない」


 そのとき、まったくこの場に似つかわしくない「おおおーい」という間抜けな大声が響いた。聞き覚えのある声に、イチは振り返る。


 ヤナギが広場の入口からこちらに手を振って駆け入ってきた。


 その後ろには傷だらけの百人近い老若男女。


 エデンアドンの人たちだ。もしかしたら手遅れだったのかもしれないと恐れていたが、彼らは無事だったのだ。


 ヤナギの後ろにはアルゴルと彼に肩を抱かれたディランの姿。


「……イチ」ディランは呟く。小さな声だったが、イチには確かにはっきりと聞こえた。

「なんか暗い洞窟みたいなとこに捕まっててんけど、なんでか知らんけど地震が起きていきなし崩れてなあ。いやあ、ほんま助かった――」


 大小の差はあれど、皆が心のどこかで安堵していた。いかに訓練を積んだ契約破りブレイカーや、人間を殺すことに最適化された特殊部隊員といえども、に変わりはなかったのだ。


 全員の注意が己からそれた一瞬に、ゴールドフィッシュは魔法を発動した。


阿呆鳥の譚詩曲ジャンパー


 我に返ったタスクフォース0の隊員の一人がとっさに引き金を引く。陽炎のようにゆらめき消えかけたゴールドフィッシュの脚を銃弾が貫いた。

 阿呆鳥の譚詩曲ジャンパーの発動に失敗したゴールドフィッシュは空間跳躍の途中でよろめき、数十メートルの距離しか移動できずに姿を現す。


 だが、その目の前にはエデンアドンの人間がいた。


 ゴールドフィッシュは、ぶんと見えざる力でディランを引き込む。その異常な力にわあっと悲鳴を上げて、エデンアドンの民間人たちは距離をとる。ゴールドフィッシュはディランの小さな身体を抱き寄せると同時に、厳然なる肉体ザ・レイドを発動し、抱え上げるようにしてその細い首を腕で絞める。


「全員一歩も動くな!」


 朱良やルカら契約破りブレイカーは動きを止めた。タスクフォース0の隊員たちも銃口をゴールドフィッシュに向けたまま微動だにしない。


「ディランを離せ! この卑怯者が!」怒鳴るルカに、ゴールドフィッシュは首を振った。

「この少年は今や私の大事な命綱だ」


 首を絞め上げられたディランは真っ赤な顔で足をばたつかせるが、魔法で肉体を強化したゴールドフィッシュは岩のようにびくともしない。


「おい、くそじじい離せよ! 臭いんだよ!」

「君にはまず年長者への口の利き方から教えねばならんようだな」


 そのとき、ゴールドフィッシュはイチが身をかがめたことに気がつき、怒鳴りつけた。


「余計な動きをするな、砂漠の停戦者デザートピジョン!」


 だが、イチはそれを無視してウォーロックを拾い上げた。焼けただれた手に刺すような痛みが走ったが、それも無視した。


 約束したのだ。


 柄をにぎっても、もはやなんの力も湧いてこない。ウォーロックは死に、ただの鋼鉄の塊になったのだと改めて実感する。


 ウォーロックも犠牲になった。もう誰も失わない。誰も殺させない。


 また誰かがこの手からこぼれ落ちるなど絶対に認めない。

 イチはゴールドフィッシュに向かって歩き出した。


 約束したのだ。幸せになるまでずっと守ると。

 俺が助け出す。他の誰でもない。

 この俺が


「止まれ! この少年がどうなっても構わんのか!」


 イチは足を動かし続けた。もうウォーロックを持ち上げる力はない。引きずるようにして走り出す。


 くっ、とゴールドフィッシュは腕に力を込めた。ディランの気道が狭められる。


 一発の銃声が鳴った。ヤナギの狂い無き放銃ウォンテッドによって放たれた銃弾はディランを傷つけることなく、正確無比にゴールドフィッシュの肩を撃ち抜く。


 噴き上がった血潮とともに厳然なる肉体ザ・レイドが解け、ゴールドフィッシュの力が緩む。その隙にディランは腕を振りほどき、「……俺は女だ!」その顎先に頭突きを食らわせた。


 のけぞるゴールドフィッシュ。ディランは地を蹴る。


 飛び込んできたディランをイチは片腕でしっかりと受け止めた。暖かい命の感触。二度と離さぬよう、強く抱き寄せる。


 そして、そのままウォーロックの柄でゴールドフィッシュの顔面を殴り飛ばした。


 ゴールドフィッシュはその場でぐるりと回転して、地面に倒れ込んだ。その砂煙が収まっても、ゴールドフィッシュは伏したまま指一本動かさない。すでに意識はなく、白目を剥いて地を舐めている。


 ようやくすべてが終わったのだ。


「イチ、もういいから離せよ」


 ディランはぐいとイチの肩を押したが、イチはその腰を抱いたまま離さなかった。


「離せって! 変なとこ触んなよ!」


 それでもイチは離さなかった。離せなかったのだ。またどこかへ行ってしまうような気がして。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る