第二章 神の尖兵、あるいは正義という名の神

ナイト・ダンサー


 砂漠の夜は冷たい。季節はすでに秋を迎え、夜間日中の気温差はおよそ二十度近い。


 太陽は地平線の端でつぶれ、卵から黄身が漏れたみたいに真っ赤な光が平らに輝いている。反対側の天球では気の急いた星たちが早くも青白く光りだしている。


 完全に日が暮れる前にイチは野営の準備を始めた。とはいえ、砂の少ない岩場に移動したくらいである。ラクダを止めてバッグを降ろし、中に入っていた食料を確認する。米軍のレーションだった。


「うっ……」


 基地にいたときに口にしたその味を思い出し、イチは呻いた。ストーンももっとましなものを入れてくれればいいのに、と思ったが、あの騒ぎの中ではこれくらいしかすぐに見つからなかったのだろう。


 火にかければ少しはましになるという噂を思い出し、イチはバッグの中からバケツ型のストーブと固形燃料を取り出す。干し肉と堅パンをかじっていた今までの旅を踏まえると、だいぶ贅沢な荷物だ。


 ストーブに水色の固形燃料を入れ、マッチで火をつけようと奮闘しているイチを見て、ディランが意外そうに呟いた。


「魔法使いなんだから、魔法でぱっぱとできるんじゃないの」

「俺は魔法使いじゃなくて、ただの人間。あれはあの朱良っていう女の人だけだ」

「なーんだ……」


 ディランはつまらなそうに呟くと、膝を抱えて座り込んだ。イチは二人分のレーションから温められそうなメニューを順番に炎の上の小さな鉄板にのせていった。

 火の通ったのを見計らって、スナックパンや肉と麺をぐちゃぐちゃにした猫の餌のような料理をレーションのトレイに戻す。一つをディランに渡した。


「いただきます」


 一口食べて、イチは顔をしかめた。温めたことによってビニール臭さが際立ってしまった。パンはさくさくして甘みが出ているが、主菜がこれではどうしようもない。


 ちらりとディランを見ると、やけにうまそうにがつがつと食べていた。イチの視線に気づいたディランは顔を赤らめた。まるでこんなものは食べ飽きてるんだ、という風に突然スプーンを扱う手つきをゆっくりにする。口元にソースがついたままだった。



 先刻まで真っ赤に染まっていた地平線は今や真っ暗な空と大地の中に溶け込んで消えてしまった。降り出してきそうな満天の星が頭上を埋め尽くす。


 食事を終えた頃に固形燃料が尽き、火が消えた。一瞬辺りが暗闇に包まれるが、すぐに目が慣れてきてイチは寝る準備をした。だが、当然のこととして荷物に入っていた寝袋は一つしかなかった。二人で入るほどの大きさはない。


「しょうがない。こっちはディランが使ったらいい」


 差し出した寝袋を受け取りつつ、ディランは心配そうに尋ねる。


「でも、イチさんは……」

「ラクダに抱きついて寝るよ。俺のことは気にしないでいいから」

「じゃ、遠慮なく」


 言うがいなや、ディランは地面に寝袋を広げ、さっともぐりこんだ。と、思ったらすでに深い寝息を立ててすやすや寝ている。よっぽど疲れていたのか、肝が座っているのかどちらかだ、とイチは思った。


 イチが腹に寝転ぶとラクダは抗議するように鼻息を荒く吹き出したが、起きてイチを振り払うまではしなかった。

 イチはローブを外して身体に巻きつけると目を閉じた。まぶたに焼きついた星の光が点滅していたが、すぐに睡魔が消し去ってくれた。


 ふうと息を吐く。早速、意識がまどろみの中に消えていく。俺も疲れていたのか、あるいは肝が……



 遠くで人が呻いているような声が聞こえた。


 イチはゆっくりとまぶたを開いた。呻くような声はまだ聞こえてくる。それになんだか肌寒い。身体から外れたローブを求めて、半分眠ったまま手で探るが、いっこうに見つからない。

 イチはあくびをしながら上半身を起こした。

 ローブはどこにも見当たらない。声はぼんやりとまだ聞こえている。

 だが、すぐにそれらはどうでもよくなった。


 ディランの寝袋が空だった。


 一気に頭が目覚める。イチは跳ね起きて、辺りを見回した。

 星明かりの下で小さな影が砂の丘陵の向こうへと歩いている。イチは走り出した。

 イチが追いかけてきたことに気づいた影も走って逃げ出した。その腕からばさりとローブが落ちる。

 呻き声は明瞭なウォーロックの叫び声となった。


! !」


 同時に影が振り向く。月と星の淡い光が砂で照り返して、ディランの顔を映し出した。


「ディラン、ウォーロックを返せ!」


 うるさいうるさい、とディランは地団駄を踏んだ。

「これは俺がもらう! 俺にはこれがいるんだ!」

「無理だ、お前には使えない!」

便

「子供扱いするな! 邪魔するなら……」


 ディランは胸に抱えていたウォーロックを前に突き出した。両手で柄と鞘を握りしめる。

 イチは走りながら、届かないと知りつつも手を突き出した。


「よせ、やめろ! 柄から手を離せ!」


 イチの制止を無視し、ディランはウォーロックを抜き放った。


 瞬間、魔剣の振動する甲高い音が夜の砂漠に響き渡った。寝ていたラクダが驚いて立ち上がる。イチは思わず耳を塞いだ。


 ディランの手からウォーロックが落とされる。小さな膝が地面に崩れ落ちた。


 そして顔面から倒れ込む直前、イチはディランのそばに駆け寄り、その身体を抱きとめた。


「だからやめろって言ったんだ……!」


 ディランはいまだ目眩が収まらず、イチを振り払う気力すらない。


「なんだったんだ……今の……」

「ウォーロックを使うにはあいつと自分の精神を直結させなきゃいけない。ディランが見たのはあいつの心の中だ」

「嘘だ……あんなの……どうやって……」


 言い終える前に、ディランはがくりと気を失った。


 イチはディランを横たえた後、ウォーロックを拾い上げて鞘にしまった。


「ウォーロック……ディランに何を見せたんだ?」


 ウォーロックは存在しない鼻を鳴らした。



 イチは首を振り、ウォーロックを腰にさした。それからディランの身体を抱え上げると、野営地へと戻るべく歩き出した。その小僧を捨てていけとか言うウォーロックを無視して、ディランを寝袋にそっと入れた。自分もラクダのところに戻って、今度はウォーロックを抱きかかえたまま横になった。

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