突っ込んでくるトラックを止めよう
空っぽの店内にこういうものなんだ、とようやく脳が納得しかけた頃だった。
待ちに待ったお客さんが自動ドアの入店音を鳴らす。何度も聞いていたこの電子メロディがこんなに感動的だったなんて、俺は今日この瞬間まで知らなかった。
入ってきたのはサラリーマンらしいスーツの男の人だった。営業帰りに少しサボりにでも来たのか雑誌コーナーへと向かっていく。ただ明らかに様子がおかしい。
入ってきた瞬間から妙に周りを気にしている。
いったいに何を気にしているんだろう? 確かに店内に人がいないコンビニは珍しいけど、それにしたっておどおどしすぎている。中学生が青年誌をこっそり立ち読みしようとして来たみたいだった。
「い、いらっしゃいませー」
「ひぃ!」
笑顔で言ったのにその反応は傷つく。ちょっと動揺して確かに声は詰まったけど、あくまで普通の対応だったはずだ。声が大きすぎたのかな。それにしても動きが変だ。こっちの様子を窺いながら目的の雑誌があるのかないのか。マガジンラックより俺の顔を見ている時間の方が長いくらいだ。
サボり慣れてないサラリーマンなんだろうか。俺が勝手に会社に連絡するとでも思っているのか。さっきまでさんざん妄想を膨らませておいたことを棚に上げて、俺はなんとなく憐れむような気持ちで怯えるサラリーマンの動きを見ていた。
大変なんだろうなぁ。それと比べてずっと立っているだけで時給一五〇〇円の自分はなんて楽なことをしているんだろう。いや、暇を持て余すのはものすごく疲れているんだけど。
よし、ちょっとくらい働いておかないと。レジ打ちの手順をもう一度復習して何か用事がないかあのお客さんに聞いてみる。意を決してレジから出ると、俺を見ていたサラリーマンの足が生まれたての小鹿のように震えはじめた。
「も、もしかして具合が悪いんですか! きゅ、救急車?」
「ち、近づくな!」
「え?」
もう土気色という表現が的確なほどサラリーマンの顔色は悪化の一途をたどっている。誰が見たっておかしい。元々鈍感が服を着て歩いていると言われる俺でもわかるくらいに気分が悪そうだ。
「と、とにかく近づかないでくれ!」
「そう言われましても」
「これ! この週刊少年ステップの最新号を買う。だから見逃してくれ!」
俺が一歩近づくたびに二歩後ろに下がるサラリーマンはあっという間に奥のビールが入っている冷蔵庫に背をつけた。体をがたがた震わせているのは寒いからじゃないだろう。
「わかりましたけど、本当に大丈夫ですか?」
いや誰が見ても大丈夫じゃないんだけど、サラリーマンはぶんぶんとヘヴィメタルのヘッドバンギングばりに頭を縦に振っている。
とりあえず言われた通りステップの最新号をとってレジに戻ろうとしたときだった。
密閉されたコンビニ店内にまで届く轟音。
マガジンラック越しにガラス窓に目をやった。
こっちに向かって近づいてくる青色が大型トラックのボディだと気付くのにそう時間はかからなかった。極限状態の脳が状況をスローモーションで分析している。運転席では驚きと諦めの表情を浮かべるドライバーが見えた。
ぶつかる。そう思っても体は少しも動いてなんてくれない。全身が水底に沈んでいるようだった。ただ、これは死んだ、というやけに他人事のような言葉が頭に浮かぶ。
「誰か、助けてくださーい!」
瞳をとじて、頭に浮かんだ言葉をそのまま叫ぶ。その願いをかなえるように俺の背後から黒い何かが蠢いた。棒のようなものが整列するように隙間なくマガジンラックの前に立ち塞がる。あっという間に視界が覆われて、太陽の光すら通さない黒い壁が現れた。
その向こうでガラスが派手に割れ、ラックがへし折れる音が聞こえた。それでも黒い壁は少しも動くことはなかった。
「と、止まった?」
頭を抱えていた両手をどける。目の前の壁をよく見ると、それは触手でできた壁だった。
タコやイカみたいな軟体動物のものじゃない。鞭みたいにしなやかで太く黒光りするような見たことのないものだった。ぬらりと粘液のようなものをまとって怪しく光っている。
ヤバい。
本能がそう言っていた。
「うわあぁぁぁ!」
俺が叫ぼうと思ったところを倒れていたサラリーマンにセリフをとられた。誰だってこの場にいたら同じことを思うだろうから、口に出すのが遅かった俺が悪いんだけど、この衝撃はいったいどこにぶつければいいんだろうか。
そこにサラリーマンの絶叫が続く。
「やっぱり、やっぱりここは幽霊コンビニだったんだ!」
「幽霊、コンビニって?」
半ば狂乱状態のサラリーマンが俺の疑問に答えてくれるはずもない。まだふらつく足でよろめきながら店から飛び出していく。あ、まだ雑誌買ってもらえてないのに。
「せっかく久しぶりのお客さんだったのに。逃げられちゃったかぁ」
その声に振り返ると、頭を掻きながら残念そうに店長が肩を落としているところだった。
「ケガはないかい、高橋くん?」
「店長。その背中から」
「これかい? これは、そうだね。私の腕、とでも言っておこうか」
「腕って言ったって。これのどこが」
しなやかに伸びた黒い壁が整列を解いて、一本ずつしゅるしゅると吸い込まれるように店長の背中に戻っていく。誰が見たって人間じゃない。
「人間じゃなければ、こんな腕の生き物だっているさ」
「じゃあ、幽霊コンビニっていうのは」
「私は幽霊ではないけどね。まぁ、君たちにとっては全部似たようなものかもね」
触手を二本だけ残して店長は俺にゆっくりと近づいてくる。俺の体はまた恐怖で動けなくなっていた。
「動いちゃいけないよ」
「あ、あ」
情けない声が漏れる。このままあの触手に絡めとられてしまうんだろうか。締めつけられるのか、溶かされるのか、それとも飲み込まれるのか。どれを選んでも嬉しいことなんて一つもない。せめて痛くない方法で殺してくれ、とだけ願う。
でも店長の触手は俺に触れることなく足元にずるずると這っていく。
「ほら、この辺りにガラス片が飛んでいるから危ないよ。今片付けるからさ」
「え?」
確かによく見ると触手の壁が戻ったときにガラス窓の破片が辺りに散らばっていた。鋭利なガラス片に少しも動じることなく、たった二本の触手があっという間に俺の周りのガラス片を集めてしまった。その早さは俺のモップ掃除の何倍だろう。
「だから店長一人でも店を回せるんだ」
「そうだよ。すっかりこの辺りで幽霊コンビニの噂が広まっててね」
「それでお店にお客さんが来なかったんですね」
「そう。それで私以外の人がレジに立っていればお客さんも入ってくると考えたんだけど、うまくいかないものだね」
だからあのバイトに誰も応募してなかったのか。あんないい条件でも幽霊コンビニなんて噂になっていたら寄りつくはずもない。俺以外の新入生は友達か先輩からその話も聞いていたんだろう。
トラックが突っ込んできたのは完全に不運なだけだ。それでも店長は俺とあのサラリーマンを守ってくれた。人間ではないし、触手はグロテスクだけど、悪い人? ではないんだよな。
「それじゃお店もこうなっちゃったし、高橋くんは帰っていいよ。あ、お給料を渡さないと。それから最後にお願いだ。できれば私のことは周りには黙っていてほしいんだけど」
まるで映画の
店長があたふたと手をばたつかせているのを無視して俺は掃除ロッカーからモップを取り出した。店長が片付けてくれたとはいえ、店内にはまだたくさんのガラス片が落ちている。きれいになるにはまだかかりそうだった。
「何言ってるんですか。最後まで手伝いますよ」
「え、本当かい? どうして?」
「どうして、って今さっき助けてもらったばかりじゃないですか。恩返しもしてないのに。そんな店長をほっとけませんよ」
お客さんどころか他にバイト仲間もいないけど、このコンビニは悪いものじゃない。俺がレジに立てば少しくらい幽霊コンビニの噂も薄れていくだろう。命の恩を返すにはそれで足りるかはわからないけど。
「た、高橋くーん!」
「そんな泣かないでくださいよ。まだガラスも落ちてて危ないんですから」
急に抱きついてきた店長を押し返すけど、まったく離れてくれる気配がない。脂ぎった中年オヤジに抱きつかれるのは命の恩人とはいえ勘弁してほしい。
って、ちょっと待って。いまなんか首筋にぬるりとした感触が。
「て、店長! 手、触手出てます! 俺の体に巻きつけないで! しかもなんか粘液も出てる! ってか締まる、締まってますって。やめて、アッー!」
トラックすら無傷で受け止める触手から俺が抜け出す方法なんてありはしない。感動して泣いている店長は俺の話なんて全然聞いていないし。
やっと冷静になった店長が俺を解放してくれたのは、背骨が折れるほんの数秒前だった。
勢いでバイトやることになっちゃったけど、これなら灰色の人生の方がよかったかもしれない。そう後悔したってもう遅い。店長の満面の笑みを見ながら、俺は覚悟を決めるしかなかった。
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