サキュバスと化した先輩
「ねぇ、眠くなってこない?」
「いや、全然」
またお嬢様口調を忘れて、ジーナさんが俺の顔を覗き込んだ。その方が年相応にかわいらしくて、いいと思うけどなぁ。
「なんでなの!?」
「何が?」
俺の思いは少しもジーナさんに届いていないようだ。突然立ち上がったジーナさんは俺の肩をつかんで大きく揺さぶった。
何も変なことなんてないはずだ。バイト上がりとはいえ大学生の夜はこれからだ。眠くなるほどまだ青春は色あせていない。平気そうにしている俺にとうとう我慢ができなくなったのか、ジーナさんは俺の飲み干したカップを指差して叫んだ。
「そんな。猛禽類用の強力な睡眠薬を入れたのに。地上最強の生物だって眠るはずなのに!」
それはライフルで撃たないと効果ないんじゃないの? ってそうじゃなくて!
「この紅茶に入れたの!?」
慌ててカップの中を覗き込むけど、もう飲み干してしまった紅茶に睡眠薬が入っていたかなんてわかるはずもない。そもそも溶けているんだからわからないに決まっている。気付いていて飲むほど俺だってバカじゃない。
「あなたいったい何者なの!? やっぱり人間じゃないわけ?」
「俺は正真正銘人間だよ!」
「もういい。こうなったら実力行使なんだから」
「え、ちょっと」
ようやく本性を現した、という言葉が今の状況として正しいのかはわからないけど、女の子とは思えない軽やかな動きでジーナさんが俺に飛びかかってくる。そっちの方がよっぽど野獣じゃないか。
突然のことに驚いたまま、俺はジーナさんに押し倒されると、ガチャリと嫌な音がする。
どこから取り出したのか、俺の両手にはしっかりと手錠がかけられていた。
「何それ。どこから出したの?」
「暴れないでよ。暴れないでよ」
「目が怖い! って何してるの?」
手錠までかけて何をするのかと思ったら、ジーナさんは俺の服の裾をまくって、そこから自分の手を潜り込ませた。紅茶で温まった手が俺の腹に触れる。子どもっぽい見た目からは想像できない妖艶な手つきに動揺が走る。
「ちょっとそれはマズイって」
「なんですか。男としては本望でしょう?」
「そういうのは好きな人と、っていうか」
「ピュアですわね。でも残念です。私についてきてしまったのがいけなかったんですの」
にやりと笑ったジーナさんの瞳にはおかしな紋様が浮かび上がっている。腹を撫でていた手は胸元をはだけさせ、首筋にまで伸びていた。
「私は夢魔。サキュバスと言った方がわかりやすいでしょうか? あなたの精をいただきたくてここに誘い込んだのですわ」
「サキュバス」
「まさか私が人間だとお思いでした?」
「え? いや、全然」
俺の当然の答えにジーナさんの手が止まった。
「え?」
「だってそんな角生やして赤い目してたら普通の人間には見えないよ」
「そんな! 私の角は人間には見えないはず」
いや、全然見えてるよ。髪の毛にすら隠れてないよ。もしかしてずっと人間の振りをしているつもりだったんだろうか。動揺したジーナさんの手は完全に止まって、ただ俺の顔を信じられないものを見るかのようにまじまじと見つめていた。
「な、ならどうして逃げなかったんですの? 私は、あなたを」
「別に人間じゃない存在くらいバイトで見慣れてるし。それにジーナさん悪い人? には見えなかったし」
「そ、そんな……」
「よし、外れた!」
枕元に落ちていたヘアピンを鍵穴に差し込んで少しずつ回していたのがようやく実った。曲がってしまったからもう使えないだろうけど、これは今度弁償することにしよう。
「あ、ちょっと」
「動画サイトで手錠の開け方見てたのが役に立つとは思わなかったよ」
「ちょっと待ってくださいな」
ジーナさんが弱々しく俺に手を伸ばす。もう完全に形成は逆転していた。でも俺はここで簡単に許してはあげない。だって相手はサキュバスなのだ。
伸ばした手をつかむ。でもそれは受けいれたわけじゃない。すぐに持っていた手錠をジーナさんの手首に通した。同じ音なのに、今度は妙に安心感がある。
「え?」
「それで俺は異種族との付き合い方を学んだんだ。自分がヤバイと思ったら、本能に任せて逃げるべきだって」
ジーナさんの手に繋がっている手錠のもう片方をベッドの柱にかける。
「それじゃ、紅茶ごちそうさま」
睡眠薬入りだったらしいけどね。一応お礼だけは言って、俺はそのままジーナさんの部屋から飛び出した。アパートの脇に止めてあった愛車に飛び乗ってそのまま日が落ちてしまった住宅街を走り抜ける。
どうやら追ってはこないみたいだ。サキュバスって特別力が強いとか聞いたことないから案外手錠が功を奏しているのかもしれない。ちょっとだけ悪いことしたかな、とは思いつつも戻るつもりはさらさらないまま、自分の家へと逃げ帰った。
「そんなことがあったんだー」
「先に教えといてくれればいいのに」
「まぁ、無事だったなら良かったんじゃない?」
サキュバスに、一応大きなくくりで言えば悪魔に襲われたんだけど。富良野さんはちょっと道端でつまづいて転んだくらいにしか聞いてくれない。相槌にもなんだかやる気が感じられないし。下手すれば命の危険だってあったと思うんだけど。
「それにさ、たぶん逃げなくても大丈夫だったと思うよ。だってあの子夢魔のくせに超奥手で未だに処……」
「それ以上言うなー!」
何かを言おうとした富良野さんの言葉を遮るようにジーナさんが休憩室に駆け込んでくる。特にやつれた様子もない。
「あ、手錠外せたんだ」
「あっさりしすぎ! 私が夢魔でよかったわね! 人間だったら餓死してるわよ!」
「あははは!」
「笑ってる場合かー!」
飛びかかったジーナさんを華麗にかわして富良野さんは狭い休憩室を逃げ回る。やっぱりこの二人は騒がしいな。富良野さんはジーナさんの悪友かつ天敵みたいなもののようだ。
「と、とにかく。昨日の一件は謝りますわ。私の本能がさせたことですので、野良犬に噛まれたと思って忘れてくださいな」
「それって全然謝ってないよ」
「ですが、私諦めてはいませんから。必ず要様の精を吸い尽くして差し上げますから、覚悟しておいてください」
「はいはい」
次もまた何かやるつもりなんじゃないか。まぁ、俺だってだてにこのコンビニで働いていないのだ。下手にお客さんに迷惑をかけるよりはいいのかもしれないな。
「あれ、要『様』?」
ふいに覚えた違和感を問いただそうと思ったけど、ジーナさんはまた富良野さんとの争いに入っていて簡単には聞けそうもない。
「ま、いっか」
俺は頭に浮かんだ疑問を隅に追いやって、休憩室を出て仕事に戻った。
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