加速する妄想を止めよう

「あの、着替えてきました」


「似合ってるじゃないか。私は店長の百手ももでだ。今日は他のスタッフはいないけど、しっかりサポートするからよろしくね」


「はい。よろしくお願いします」


 元気よく返事はしたものの不安だった。はじめてのアルバイトでいきなり店長と二人きり。やらかしたりしたらどうしようもなくなってしまう。それにもうここに来て十五分は経っているというのに店内をぐるりと見回してみても、誰一人としてお客さんの姿はない。


 外は裏道ということもあってトラックや乗用車がかなりの数で流れていくけど、ここに立ち寄ろうという気配すらなかった。それどころか店の前だけ速度を上げているようにすら見える。


「それじゃ、レジの打ち方だけ教えておくよ。他のことはこっちでやるからね。とにかくお客さんの相手だけしてくれればそれでいいからさ」


「で、でもいきなりお金に関わるレジ打ちをやるのは」


「間違えてもいい。責任は私がとる。だからレジの前に立っててください!」


「いきなり敬語で!?」


 これじゃどっちがアルバイトかわからないよ。体が直角になるまで頭を下げた店長の本気にはちょっとひいてしまう。さっきからいったいなんなんだ、このコンビニは。俺の知ってるコンビニと全然違うんだけど。


「ほら、とりあえずこれでいいんじゃないかな」


 店長はレジの側に置いてあった一〇円のチョコを一つ選ぶと、そのまま俺に手渡した。言われた通りにレジを打ってみる。とはいっても半分機械化されているんだから難しいこともない。


 バーコードを読み取り、表示された金額をお客さんに伝える。それからお代を受け取ってキーを打ち込み、レシートとお釣りを渡す。これだけだ。


「そうそう。バーコードがないものは手で打ち込んでね、大丈夫?」


「なんとかなりそうですけど」


「よし、じゃあ私は他の仕事をしているから、後はよろしく!」


 逃げるようにバックヤードへドスドスと音を立てて走っていく。俺が来たときもバックヤードにいたし、いったい何をしているんだろう。


「え、そんな! 俺一人ですか?」


 不安だ。不安すぎる。ミスしたときはどう対処すればいいんだ。なんだか呼び出したところでまたのらりくらりとかわされそうな気もするし。


 できれば、お客さんが来ませんように。

 さっきまでは奇妙だと思っていた空っぽの店内も今はそれが崩れてしまうことに恐怖を覚えている。人間の心理はわからないものだなぁ。


 もうどのくらい時間が経っただろうか。店にかかった時計を見ると、まだ三〇分も経っていなかった。時間がずいぶんと長く感じられる。


 コンビニは割に合わない、忙しすぎる。そんな話は山のように聞いていた。だからあの時給を見るまではアルバイトをするにしてもコンビニはやめておこうと思っていたほどだった。それがここでは暇すぎて持て余すほどで、もうここに立っていることが拷問のような気分になってくる。俺って意外と真面目な人間だったのかもしれない。


 それに他のバイトが一向に姿を見せないことからして、やっぱり店長は今日一日を一人で回すつもりだったんだろう。二十四時間営業のコンビニで、まだ夕食の前というさも忙しそうな時間をだ。どう考えても異常事態だ。


 俺がよく行く下宿先から一番近いコンビニは大学も近いこともあってか深夜に行ったときも二、三人はいつもいる。休憩や裏で働いている人は見えないから、本当はもっといるかもしれない。


「もしかしてここ実はコンビニじゃないとか」


 たとえば高い時給に釣られたバカを捕まえてどこかに売りさばく危ない人たちの罠だったり。ざるにつっかえ棒をしただけの簡単な罠にかかる雀のように俺は今、最悪の状況下で米粒をついばんでいる。


 そうだとしたら今すぐ逃げ出したい。

 でも荷物はまとめて店の一番奥のロッカールームにしまっていると思い出す。

 携帯電話も学生証が入った財布もその中だ。このまま逃げ出したところでどうにもならないのは明白だった。


 それにいいバイトを他人にとられたくないと思って、今日は誰にも言わずにここまで来てしまった。大学からはちょっと距離があるこのコンビニにふらりと知り合いが立ち寄ってくれるとは思えない。そもそも大学にろくに友達がいないのにそんなのに期待なんてできない。


「もしかして、俺詰んでる?」


 いまさら後悔したって遅い。俺はレジ台に両手をついてがっくりとうなだれることしかできない。ロッカーに行くまでには店長がいるバックヤードを通る必要がある。それをどうやって切り抜けようかと考えていると、ウォークの方で大きな音がした。


「店長? 大丈夫ですか?」


 俺は気付いていない振りをして声を投げる。


「あぁ、張り切って物を落としちゃっただけだよ」


「手伝いにいきましょうか?」


「だ、だだ、大丈夫! 私のミスだからこっちで片付けるよ。店の方を見ていてくれればそれでいいから」


 妙に焦った声は明らかに何かを隠している。俺の想像がさらに現実味を増していく。


 もうバックヤードには怖い人が待機していて、俺はこのまま奴隷商人にでも引き渡されるのか。それとも体からとれるだけ臓器を売りさばかれてコンクリートに入れて海の底に沈められるのか。


「高橋くん?」


「はいぃ!」


「どうしたの? そんなにびっくりして」


 加速した妄想から引き抜かれるように現実に戻ってくる。いつの間にか後ろに立っていた店長が心配そうな顔で俺に肩を叩く。


「い、いえ。急に後ろから話しかけられたので」


 そうだ、ここで店長を倒して逃げ出せば、と思って思いとどまった。まだ確定したわけでもないのにそんなことできるはずがない。そもそも太っているとはいえ体格のいいこの店長に勝てる気がしなかった。


「まぁ、バイト初日なんてそんなものだよね。はい、これ」


 店長が俺に手渡したのは小さな缶ジュースだった。


「あ、オレンジジュースは嫌いだったかな? 落としてへこんじゃったからあげるよ。暇なときに飲んでくれていいからね」


「あ、ありがとうございます」


 オレンジジュースを受け取ると、やっぱり店長はそそくさと逃げるようにウォークへ戻っていってしまった。でも今度は崩れたジュースを片付けに行ったんだとわかっているから少しも怖くない。


 なんだやっぱり俺の思い過ごしじゃないか。わざわざ気を遣ってジュースまでくれるなんていい人だ。お菓子ももらってしまったのに、これで一人のお客さんも来なかったら本当に申し訳ない気がする。


 レジ台に置いたジュースをどこかに移そうとして、俺はなにかぬるりとした感覚に気がついた。


「なんだろ、これ?」


 指についた粘度のある液体は臭いも特にない。でも俺の頭の中を一生懸命探しても一致するものは見つからなかった。


「倒したときについたのかな? じゃあウォーク内って今結構な惨状なのかも」


 手伝いに行った方がいいのかもしれない。でも店番を頼まれているし。ウォークの方に聞き耳を立ててみるけど、ごそごそと片付けている物音がするだけでそれほど焦ったような雰囲気は感じられない。


「もう。気が紛れないから早く誰か来てくれないかなぁ」


 また変な妄想が始まらないように俺は店の外を全速力で走っていく車の列をぼんやりと眺めていた。

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