背後の男にもご用心

 本日の売上はしめて五四〇円也。


 しかもそのうちの大半は小木曽さんが買ったグル―の代金。お客さんはペットボトル一本だけを買っていった長距離ドライバーらしきおじさん一人だけだった。

 それだというのに。


「やったよ、高橋くん! 商品が売れたよ」


 店長はこの喜びようだ。俺一人分の人件費すらまったくまかなえてないんですけど。このコンビニっていったいいつから経営しているんだろう。たった二日しか来ていないけど、明日で閉店すると言われても信じてしまいそうなくらいだ。


「そ、それはよかったですね」


「これからきっと少しずつ売上も伸びていくよ。これも全部高橋くんのおかげだよ」


「そこまで言われるとちょっと気が引けるんですけど」


 売ったのはたった一本のペットボトルだけだ。これでここまで喜ばれていたら普通のコンビニくらい売上が出るようになったらどうなってしまうのか。興奮して触手を出してまた幽霊コンビニに戻ってしまいそうな気がする。


「いやぁ、本当にありがとう。今日はあがりだけど、明日もよろしくね」


「はい、お疲れ様です」


 俺の両手をつかんでぶんぶん振っている店長から逃げるように俺はロッカールームへ向かう。やっぱり感覚がちょっとズレてる気がするけど、それは店長が人間じゃないからなんだろうか。


 なんだか今日は昨日よりも疲れたような気がする。暇を持て余すことに少し慣れたけど、休憩室ではずっと富良野さんが楽しそうにしているのだ。爪を磨き、お菓子を食べ、テレビを見て笑う。立っているだけとはいっても働きに来ている俺としてはそんなのが近くにいるってだけで精神がすり減る思いだ。


 しかも変な飴まで舐めさせられて。まだ舌が少し痺れているような気がする。たった一日でこんなに振り回されるなんて思っていなかった。


「今日は早めに寝よう」


 ふらふらとおぼつかない足でシャワールームの前を通り過ぎ、ロッカールームの扉を開ける。そこにいた人物に俺は疲れて閉じそうになっていた目をもう一度いっぱいまで開かされる。


「あ、要くんお疲れー」


「お疲れって。富良野さんは働いぃ!?」


 てない、という言葉が続かなかった。ロッカールームは元から着替えをする場所だ。それはこの一風変わったコンビニでも変わらない。そして今まさに俺の目の前では富良野さんが着替えをしているところだった。


「な、な、なんで富良野さんがここにいるの!?」


「だってここロッカーだよ? 着替えにきたんじゃん」


 あ、そっかー、じゃなくて! どうしてそのロッカールームに男の俺と女のあなたが同時に入る余地があるのかってことだよ!

 いろいろ言いたいことはあるけども酸欠状態だった脳に一気に血が巡ってきて、何も口から出てこないまま金魚のようにパクパクと口を開け閉めすることしかできない。


「ここのロッカー男女共用だよ。知らなかった?」


「全然知らなかった! っていうかそれ問題でしょ」


「あ、ロッカー奥側? どけようか?」


「そうでもなーい!」


 まさに今着替えている最中の富良野さんはもう制服のスカートをはいているものの、ブラウスのボタンはまだ全開状態だ。ブラの下にまで包帯を巻いている徹底した厨二病のおかげでほとんど肌は見えていないけど、意外と大きな胸の谷間に視線が抗いようもなく吸い込まれていく。


 いかん。相手は富良野さんだ。後で何を言われたものかわかったものじゃない。これを材料に何かを買ってとねだられては断れるはずもない。


「と、とにかくごめんなさい!」


 もう手遅れな気もするけど、俺はすぐに踵を返して今入ってきたばかりのドアを乱暴に開けて外に飛び出した。


「はぁ。本当に心臓に悪い」


 まだ動悸が収まらない。あんなシーンに巡り合うような人生は今まで送ってこなかったからどうすればいいのかまったく分からない。


 そもそもこんなにだだっ広いバックヤードがあるっていうのになんでロッカーが男女兼用なんだ。店長の感覚はやっぱりちょっと人間とはズレているのかもしれない。すぐ触手出したまま仕事しちゃうし。


「今日は他に男しかいなかったんだから、普通鍵かけるよね?」


 誰もいないはずの場所に問いかける。網膜に焼きついた魅惑の谷間を消すために頭を振り回した。そう簡単には消せそうにないけど、ちょっとは薄れたかな、と思ったところにまた大きな影が姿を現した。


「おい」


「はいぃ!」


 またこのパターンだ。そりゃロッカールームに富良野さんがいるならこの辺りで小木曽さんが待っていても何もおかしなことはない。


「ここで何してる」


「あ、いや、富良野さんが今着替えてるみたいでそれを待ってるんですけど」


「じゃあなんでそこから出てきた?」


「見られてたー!」


 浅黒い血色の悪い腕が俺の制服の胸倉をつかむ。細い腕だと思ったのに、そのまま持ち上げられそうな勢いで背筋が凍る。もしかして小木曽さんって人間じゃない? 店長がそうなんだから他にもいたっておかしくない。そう考えると肌の色の悪さも大きなクマのできた目元も納得できる。


 なんでそんなことに今まで気がつかなかったんだろう。このまま投げ飛ばされでもしたら無事じゃ済まないかもしれない。


「はーい、終わったよ。って二人とも何やってるの?」


 もうつま先も浮きそうなほどになっている。それなのに俺を見てなんでそんなのん気なあいさつができるのか。


「富良野さん。この状況を見て何かないの!?」


「姫、ご無事ですか?」


 俺の方が全然無事じゃないんだけど! その優しさの一割くらいでもいいからこっちに向けてほしい。できれば体の半分は優しさでできていてほしいんだけど。


「あー、裕一。なに要くんいじめてるの。その手を離しなさい」


「はい。わかりました」


 言われるがままに小木曽さんは俺の胸倉から手を離した。くしゃりとしわのついた制服は重力に引かれても一向に元の形に戻る気配はない。こんな力で腕や首なんかを持たれたら、と思うとぞっとする。


「はぁ、助かった」


「それはよかった。それじゃお詫びにこれあげるね」


「軽い! 謝罪が軽すぎる!」


 元はと言えば富良野さんが鍵もかけずに着替えていたからこんなことになってたんだけど。俺の文句を遮るように富良野さんは口の開いたスナック菓子を俺に押しつけるように渡した。それと同時に鼻を貫くような刺激臭に思わず飛び退く。見ると袋の中から紫色の煙がたちこめて毒々しい色と臭いを撒き散らしていた。

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