金星記 第8話 「僕は本気なんだ」
「ねぇ、アイシャ」
「はい?」
アイシャが包帯を巻きつつ、「痛みますか」と問うてくる。グラーイスは首を横に振り、「聞きたいことがあるんだけれども」と前置きした。
「何でございましょう」
「この前、君は、もう一度嫁いだ身だから再婚などは考えられない、と言っていたでしょう。あれは、本気だったのかな。僕が嫌だったので、口実が欲しかった、とか。そういうことではなく?」
アイシャが手を止め、わずかに眉を動かして嫌そうな顔をした。
「その話題ですか」
「教えてほしいアイシャ。僕は本気なんだ」
「本気だなんて、そんな」
「ごまかさないでほしい」
アイシャの左手首をつかんだ。アイシャは数秒ほどのわずかな間黙ってグラーイスを眺めたが、やがて「離してください、仕事になりません」と言ってその手を振り払った。
「アイシャ」
「私は仕事に参ったんです、そのような私的な話は今は関係ありませんよ」
「けれど大事なことだ、君がこれからこの家で働いていくのにこの家の息子とごたごたしたままだとか思いたくないだろう?」
アイシャは溜息をつき、「本気ですよ」と答えた。だが言いながらグラーイスの顔を見ることはなかった。
「マリッダ様や若様は私をもう一度嫁がせようとおっしゃっていろいろと手配なさっているようですけれどね、私はすべてお断りするつもりです。それに、相手がどなたであるとかは、一切考慮しないつもりでおります」
グラーイスは釈然としないものを感じて、「なぜ」と突っ込んだ。アイシャは相変わらずグラーイスと目を合わせようとはしなかった。ただ、「失礼します」と言って布団の上に乗り、グラーイスのすぐ膝の脇に膝を寄せて手を伸ばした。
「お顔の傷を見せてください、私の仕事はそれで終わるんです」
「終わったら聞かせてくれる?」
「終わったらすぐマリッダ様のところに戻ります、今日はもうこれで終わりであとは娘と過ごすつもりです」
「ではいつ僕の相手を?」
「そんな予定はございません」
「じっとして」と言ってアイシャが強引にグラーイスの頬に当てられていた布を剥がした。のり付きの紙帯のせいで頬がかすかに痛んだが、その痛みはすぐに消え失せた。グラーイスの気分がそれどころではなかった。
「ああ、こちらはもうかさぶたになっているのですね、では特別手当てをしなくて――」
「でももう夫に離縁されているんでしょう? なぜ今になってもそんなことを言うの」
アイシャの表情がさらに険しくなった。
「そんなこと私の勝手でしょう」
そのとおりだ。だがそれではグラーイスが納得できないのだ。
なぜ、そんな態度をとるのだろう。自分がこんなに欲しているというのに、いったいなぜ、自分の方を見ないのだろう。
「いつまでも過去に囚われているのは不健康だ、君を捨てた男のことなどさっさと忘れてしまったらどうだ」
言ってから後悔した。普段であれば絶対にこんなことなど言わなかっただろう、勢いに任せて思ったままを言ってしまった。
アイシャが一瞬動きを止め、目を丸くしてグラーイスを眺めた。その顔は彼女が受けた衝撃を物語っていた。やってしまった、と思った。今のは紳士ならざる言葉だ。
「知ったようなことを言って」
アイシャが、蒼ざめた顔で、震える声で言う。
「貴方に私の何が分かると言うの? 何を知っていてそんな口を利くんです」
ここまで感情的になっているアイシャを見るのも、これが初めてだ。
今までは動かなかったアイシャの心が、前の夫の話に触れた途端、動いた。
悔しかった。彼女の心は、前の夫にしか動かせないのだ。
「前の旦那はそんなに良い男だった?」
アイシャは即答した。
「ええ! 最高の夫でした、気取ったところのない穏やかで何より私のことを考えてくれる人でしたよ」
それが、お前は気取っていて気性が荒くアイシャのことなど何も考えていない、というように聞こえた。しかも、自分以外の男に最高という形容詞がつけられている。我慢ならなかった。
「解せない! その何より君のことを考えてくれるはずの男がどうしてこのアルヤでは離縁された女は差別されると知っていて君を手放したんだ、矛盾しているじゃないか! 僕だったら絶対そんなことは――」
「そんなことは言わないでください、あの人を馬鹿にすることは私が許しません!」
限界だった。
アイシャの手首をつかんで強引に引いた。布団の上に引きずり倒した。アイシャが「きゃっ」と悲鳴を上げたが気にならなかった。そのまま馬乗りになるようにして覆い被さった。アイシャが自分の下で目を丸くする。
「なっ、何を」
むりやり唇を唇で塞いだ。もう喋ってほしくなかった。
何も言わないでほしかった。自分以外の男を自分以上であると語ってほしくなかった。自分の前で自分以外の男のことを良く言わせたくない。
自分だけを見ていてほしい。
「いやっ」
服の裾を捲り上げるようにして右手を差し入れた。白い肌は滑らかでまだ若々しい。
このまま支配したい。
「ちょっ、やめて」
左肘をアイシャの顔のすぐ脇に置き、器用にマグナエを剥ぎ取った。下から出てきたのは、緩く弧を描く、顎の下辺りまでしかない栗色の髪だった。普通アルヤの女性は髪を長く伸ばす。こんな断髪ではまるで寺院の尼僧だ。彼女のもう二度とどこへも嫁がないという強い意志の表れであるように思えて嫌だ。
だが、髪が短いのは今はむしろ好都合だ。すぐそこにあった白い首筋に口づけた。
このまま、どうかこのまま――
「やめ……っ、嫌っ、ザンド様っ」
グラーイスは、そこで、手を止めた。
「ザンド様……」
何もする気がなくなった。そのまま身を起こし、布団の上に座り込んで、「やめた」と宣言した。
「その、ザンドというのが、君を捨てた男の名前かい?」
震える手で自分の服の胸元をつかみながら起き上がり、もう片方のやはり震えている手で自分の目元の涙を拭いつつ、「いいえ」と答えて、グラーイスを睨みつけた。
「死にましたよ」
その瞬間、
「死んだのですよ、病気で……!」
本当にいろんなことを、後悔した。
「私を置いてっ、死んでしまったんですよ! ザンド様は、死んでしまったんですっ! もうどこを捜してもどこに行ってもどれだけ会いたいと願ってもどれだけ会わせてほしいと祈っても会えないんですよ!」
アイシャは、グラーイスを睨みつけたまま、立ち上がった。
「私から離縁したことにしてくださいと舅と姑に言ったんですよ。ガーフナーン家はフォルザーニー家と違って家計が苦しいんです、ザンド様が病床に臥して働けず妻である私が働くのは体裁が悪いからと言って老いた舅とザンド様の小さな弟が働いて養ってくださっていたんです。私は女の子しか授からなかった、家を継げる子は産めなかった、そんなところに長々と居座るだなんて私にはできなかった。だから、自分から出ていくと言ったんです」
「そんな――」
「ガーフナーン家の方々は優しかった……皆さん私を引き止めてくれました。でもそんな綺麗事だけでは食事はできないんです、貴方がたには分からないでしょうがね」
「あの、」
「せめて孫だけでもとも言ってくれましたが、それだけは――」
アイシャが両手で自分の顔を覆い、「娘が父親似なんです」と嗚咽紛れに言う。
「あの子なしでは、私が生きていけなさそうだったから……っ」
言ったあと、彼女は顔を上げ、涙を服の袖で拭ってから、篭を持ち上げた。
「これで満足でしょうか、私はもう帰らせていただきます」
呼び止めようとしたのはいいが、何と言って呼び止めればいいのか、そして呼び止めて止まってくれた時その後どうしたらいいのかが分からなかった。そこで言葉を切ったグラーイスを、アイシャは振り切るようにして踵を返した。
「フォルザーニー家の方々には感謝しております、実家に帰ることもできなかった私たち母娘を拾ってくださったんですもの。ですが私は夫を愛していましたし夫も私を愛してくれていました、私は絶対にからだを売りたくありません!」
「失礼します」と言い、アイシャが出ていった。グラーイスには、もう、止められなかった。どうしようもなかった。代わりに枕を抱き締めて、布団に顔を埋めて呻いた。他には何にもできなかった。
ハルーファの言葉が頭の中をめぐった。
男女が別れる理由など一つではない。
分かっていたつもりだった。だが、まさか死というもっともどうしようもない別れの形まで想定しなければならなかったとは思ってもみなかった。
勝てそうになかった。相手に死なれてしまったら比較のしようがない。しかも、時が経てば経つほど、夫との愛に満ちた日々は彼女の中で美しい思い出となるだろう。
何より、彼女は泣いていた。決定的に傷つけてしまったようだ。
これほど徹底的に敗北したのは初めてだ。
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