白日記 第4話 その瞬間僕は彼女と結婚したいと思った
十五日も朝から晴れていた。アルヤ王国はサータム帝国とは違ってこの季節には雨が降ることもあるんだけど、その日は太陽が空を蒼く染めていたよ。
メフラザーディー家は伝統的に使用人を使わないので――防犯とか国家機密の守秘義務とかの都合上なんだけど――母が自分の手で僕に上等な衣装を着せてくれた。僕は、自分は白将軍であり武家のメフラザーディー家の当主なんだから軍服でいいと言ったのに、母は勝手に白っぽい生地の服を仕立て屋に注文していた。僕はその、どちらかと言えばゆったりとした着物に、これではまるでフォルザーニー家だな、と思ってちょっと嫌だったことを憶えている。
その会合は僕の家の客間で行なわれることになっていた。母は僕が仕事に行くことを前提に予定を組んでいたので、丸一日休みになってしまった僕は、午前中家の周りをぶらぶら散歩して過ごした。そんなふうにのんびり過ごしたのはいったいどれくらいぶりだっただろう。
涼しい朝方に、特に何も考えず、平和な家の前の通りや裏の庭を歩く――アルヤ王国はいいところだな、と思った。それもこれも太陽が輝いているからだ。
僕が自分の家の池のほとりにすわり、そろそろ気温が上がってきたので家の中に入ろうかと考えていた時のことだ。
「サラーム」
柔らかい挨拶の言葉が聞こえてきた。若い女性の優しい声だった。
振り向くと、そこに小柄で華奢な少女が立っていた。
「暑くなる前においでなさいとおっしゃられましたので、早めにお伺いした次第です」
彼女は、金の縁取りのある深い緑色の衣装を纏い、紫の石のついた金の首飾りをつけていた。まるで花嫁衣裳のような派手なものだったけど、彼女自身は大人しく控え目な笑顔で微笑んでいた。おっとりとした、穏やかな印象だった。木漏れ日のように優しげだった。
思わず立ち上がり、彼女と向き合った。
でも、言葉は出なかった。
恥ずかしかった。僕はそれまで本当に白将軍とは何かということしか考えていなかったから、家族と王族以外の女性と口を利いたことがなくて、こういう時どう声をかけたらいいのか、分からなかったんだ。
「あの、君は――」
「初めまして」
彼女がぺこりと頭を下げた。
「ナディア・レザーと申します」
それから、顔を上げて、にこっと笑った。明るい茶色の瞳が綺麗だった。緑のマグナエからはみ出ている前髪も金に近い亜麻色だった。
「ラシード・メフラザーディーです」
知っているだろうにそう名乗った僕は間抜けだっただろう。けれど、彼女はそんな僕を馬鹿にしたりはしなかった。ただ、口元で両手の指先を揃えて重ね、はにかんだ様子で言った。
「将軍様だと聞いていましたから、きっと鬼のようにたくましくて猛々しいお方なんだろうと思っておりましたが、まるで王子様のようにお優しそうで、ほっとしました」
その瞬間、僕は、彼女と結婚しようと、したいと思った。今思えば一目惚れみたいなものだった。
その日の夕方、僕は生まれて初めて母にわがままを言った。彼女と結婚したい――僕が生まれて初めて白将軍として、メフラザーディー家の長男としてではなく、僕個人として何かを望んだ瞬間だった。
どうやらみんな僕が動き出すのを待っていたらしい。結婚の話はとんとん拍子で進んだ。
母と言い妹たちと言い、僕の目の届かないところで行動派なんだね。よくよく考えれば、父が、兄弟が、夫が、息子が次々と白軍に連れていかれて帰ってこないんだからさ、強くなるわけだ。
僕は母をずっと大人しくて夫や子供に尽くすしかない人なんだと思っていた。けど、本当はそんな母に何もかもをやってもらっていたんだよ。当時は気づかなかった。情けないよなぁ。
ナディアは翌月我が家にやって来た。家族に連れられて、わずかばかりの嫁入り道具を持ってきた。
三日三晩お祭りのような結婚式をした。他の将軍たちや白軍の面々、エスファーニーやフォルザーニーのような親戚の家々まで、本当に大勢の人が祝ってくれた。僕はこんなにたくさんの人が僕の結婚を祝ってくれるとは思っていなかったから、本当に驚いた。
チュルカ平原出身の君のために説明しておこう。
アルヤでの正式な結婚式というのは、三日間にわたって行なわれる。式次第はだいたい以下のとおりだ。地方によって、また家柄によって多少の違いはあるけど、エスファーナの上流階級ではたぶんこれが伝統的な結婚式とされているはずだよ。
まず、初日の朝は両家で別々に支度をする。
昼頃に花嫁が親族に連れられて花婿の家に来る。食事を取りながらお互いの家の者が祝辞を述べ合う。夜遅くまで親戚一同で飲み食いして騒ぐ。新郎新婦は別にされて過ごす。古い慣わしのある家や村では、この時になってもまだ新郎新婦はお互いの顔を見ることができないそうだよ。
初日の晩は、花嫁は親族の女と、花婿は親族の男と過ごすことになる。これは、花嫁の家にとっては花嫁との最後の別れと彼女の新しい人生への祝福、花婿の家にとっては新しい家族を迎え入れる前の最後の晩餐、という意味があるんだそうだ。
僕は父も男兄弟もいないから一人で過ごすのかな、と思っていたけど、真夜中に突然赤将軍が「将軍は皆兄弟」とか何とか言ってお酒を持って入ってきてね……僕はその晩初めて他の将軍と酔っ払うまでお酒を飲んだ。
二日目は初めて二人が一緒に行動をする。寺院に出向いて太陽に結婚の報告をするんだ。これも地方によっていろいろなやり方があるらしい。
僕らは親族揃って蒼宮殿に行ったよ。何せ僕は白将軍だからね、直接太陽である王に報告しなければならない。
でも、陛下はいらっしゃらなかった。
代わりにハヴァース殿下がセターレス殿下とシャムシャ姫を連れておいでになり、祝福のお言葉をくださった。
ハヴァース殿下とシャムシャ姫がいらっしゃった時の親戚一同の騒ぎようと言ったらなかった。セターレス殿下にはちょっと申し訳ないけど、王太子殿下と『蒼き太陽』に比べたら地味な王子様だからね、その辺は誰も触れない。
ハヴァース殿下のすらすらと祝辞を述べられた様子を見て、僕は、この方はもうすでに王であらせられるんだ、と思った。
二日目の晩は、ある意味でいよいよ本番だ。
僕は一人緊張で高鳴る胸を押さえながら寝室でナディアを待った。
花嫁は自分の親族の女に花婿の待つ部屋の前に連れてこられる。付き添ってきた花嫁の親族は隣室で聞き耳を立てるのが慣わしらしい。花嫁が逃げるのを防止するためだそうだけど、正直やめてほしいよね。
ナディアは薄い緑の肌着に緑のマグナエでやって来た。
前回会った時より表情が堅い。彼女も緊張しているようだった。
「ラシード様……」
僕は何を言ったらいいのか分からなかった。彼女から顔を背けつつ、「ラシードでいいよ」と呟くように言った。
「ラ……シー、ド。そちらに行っても、よろしいでしょうか」
「も……もちろん」
寝台がぎし、と鳴ったのは分かった。でも、僕にはどうもできなかった。嫌な間だったよ。静かと言うか、沈黙ばかりだった。
やがて、ふ、と、吹き出すような、小さな笑い声が聞こえてきた。
反応して顔を上げると、ナディアが笑っていた。その様子がとても可愛らしかった。
「緊張なさってるんですか」
「ご……ごめん」
正直に、「家族と王族の方々以外の女性と口を利いたことがなくて、何を話したらいいのかぜんぜん分からないんだ」と答えた。僕はそんな自分が恥ずかしかった。人間としての豊かさに欠けた情けないやつだな、と思ったよ。
でも、ナディアはそんな僕を馬鹿にしないでくれた。
「私も、とてもどきどきしています。父や兄や弟以外の男性とこんなに近くでお話しするなんて、初めてですし……今までは、それではふしだらよ、お嫁に行けないわよ、なんて言われてきましたのに。先ほど叔母にすぐ子を授かるくらい頑張りなさいと言われて、もうどうしようかと思いました」
恥ずかしそうにそう言うナディアを、愛しく思った。
「でも、私は、ラシードのことをもっとよく知りたいと思っていますし、女のくせにと思われてしまうかもしれませんが、私のことも、知っていただけたら、と思っています。だから……、何でも話してください。ね?」
言ったあと、彼女は自分の頭を覆っていたマグナエを取った。柔らかそうな、亜麻色の髪は、肩を超えるほどまで伸ばされていた。
アルヤの女性は家族以外に髪を見せない。髪を見せるということは、そうだなあ、自分を好きにしていい、という意味になるのかなあ。絶対的に信頼していますよ、あなたはきっと私のことを悪いようには扱わないと信じていますよ、ということになるらしい。もともとは、男は女の髪を見ると興奮してしまうから愚かで助平な男のために女がわざわざ隠してやっているんだ、というようなことだそうだけどね。言われてみれば、ものすごく興奮していたなあ。もう本当に、馬鹿だね。
彼女を抱き締めた。前の晩に赤将軍が花嫁に恥をかかせたらいけないからと言っていろいろ吹き込んでいったことに助けられた。いやもう、僕は本当に無知蒙昧で――純真無垢だったということにしておきましょうか。
その晩のそれからのことは内緒です。
三日目の朝は、事がきちんと済んだことを確認され――これほど恥ずかしかったこともなかったけど――花嫁の家族が娘との最後の別れの挨拶をし、去っていく。若い夫婦の新婚生活が本格的に始まるのはそれからだ。
それから、僕とナディアのたった一年半で終わることになる結婚生活が始まった。
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