白日記 第5話 愛するとは何か、守るとは何か
結婚式から数日後の朝のことだ。
仕事に行く直前、玄関で最後の支度をしていた僕の方へ、ナディアが小走りで寄ってきた。寂しそうな顔をしていた。僕は心配で「どうした?」と訊ねた。
「あの、今日はいつ頃お戻りになられますか?」
「え? 仕事から、ということ?」
「はい。お義母様に聞いても、分からないから直接ラシードにお聞きなさいと」
僕も「んー」と首を傾げてしまった。僕は朝から晩まで、それこそハヴァース殿下が朝寝所を出られて夕方寝所に戻られるまでの間ずっと宮殿にいたからさ。何かあれば泊まることさえある――これは今もだ。
「遅くなると思うから、好きにしていていいよ」
ナディアの眉尻が垂れた。
「遅くなる、というのは、いったいどれくらいで?」
「うーん……、月が傾くまでには」
「今日もですか。たまには早く戻れないのですか?」
僕はそんな反応をされたことに驚いた。
「お休みの日はないとお聞きしました。なのに毎日これではお体を壊します」
「いや、今日までそれでやって来たから――」
「いいえ、早く帰って早めに休まれるとか、お昼に一度戻られて午睡をなさるとか、どうにかお体を休めてくださいませ。心配です」
僕は僕を白将軍として働いている時にしか価値がないのだと思っていた。休むことを肯定的に考えたことがなかった。
ナディアは真剣な目で僕を見ていた。どうしても休んでほしいらしい。
僕は内心恐ろしく思いながらも、「分かった」と答えた。
「副長や陛下に相談してみる」
半分口から出まかせだったけれどね。お見合いのために休みを貰うという話をした時とまったく同じだったよ。
でも、ナディアがほっとしたように笑ったから、なんだか、頑張って休まないとな、なんて思った。
お見合いの時とは違って、副長は即答してくれなかった。まあ、それもそうだよね。今までずっと休みなく働いていたところを平和だしお家のことでもしようかと言ってぽっと一日だけ休むのと、常時決まった休みを自分自身の休息のために取るのとでは、ねぇ。
彼は僕に他の白軍幹部の勤務表を手渡し、「陛下にご相談し申し上げなされ」と言ってくれた。すぐにだめだとは言わないところが彼の良いところだね。
その日陛下は北の塔で王家の財産の管理のお仕事をなさっていた。だから僕は副長に貰った勤務表を眺めながらそっちに向かっていた。
東の塔の回廊を通り、北の塔の回廊に入った、その時だった。
僕はまたもや捕まった。
「やぁラシード」
右手の柱の影からおいでになったのは、にやにやと人の悪い笑みを浮かべていらっしゃるハヴァース殿下で、
「お前、そんなに思い詰めた顔をしてどこに行く気だ?」
左手の柱の影からおいでになったのは、馬鹿にした目で僕を眺めていらっしゃるセターレス殿下で、
「ヒマならかまってくれよなー!」
ハヴァース殿下の背中からお顔をお見せになったのは、長く蒼い三つ編みを揺らしてにこにこなさっているシャムシャ姫だ。
ああ、また厄介なことになった。どうしてこのお三方はいつもつるんでうろうろなさっているのか。
「何を持っているんだい? 見せなさい」
有無を言わさず、ハヴァース殿下は僕から勤務表を取り上げなさった。
「……何かな? これ」
ハヴァース殿下とご一緒に、セターレス殿下もそれを覗かれた。小さなシャムシャ姫だけが背が足りず「シャムシャもーっ、シャムシャもーっ」と騒ぎながらぴょこぴょこと跳ねなさっている。
「これがどうしたのかな。どこに持っていくつもりだったと?」
「国王陛下にです」
「何のために?」
「僕も定期的にお休みをいただけないかと、ご相談に」
そう申し上げた途端、お三方の表情が変わった。お三方の神聖な蒼い瞳に睨まれ、僕はとんでもないことを申し上げてしまったと思い震え上がった。
「休み、だと? お前、自分が何を言っているのか分かっているのか? 我々王族には休みなどない。その王族を守るお前が休むだと?」
セターレス殿下の低くなったばかりのお声が僕に突き刺さる。
「まあ、よしなさいセータ。話くらいは聞いてやろうじゃないか」
僕は今でもたまにセターレス殿下がお怒りなのを聞いているとここにハヴァース殿下がいらっしゃったらと――あ、これは内緒だよ?
僕はやはりだめだったと諦めつつ、ハヴァース殿下にはきちんと本当のことを申し上げなければならないという思いから、口を開いた。
「たいへん申し訳ありませんでした。ただ、妻が、今の勤務状況は不健康であると申しましたので、そうかと思った次第です」
セターレス殿下は「女に言われてか」と鼻でお笑いになった。僕もそうおっしゃられてから確かに情けないなと思った。けれど、シャムシャ姫が「そんな言い方はないよ、シャムシャも女だ」と兄君をたしなめてくださった。セターレス殿下が腕を組み、むすっとした顔で外をお向きになる。八歳児に助けられるとはね。
ハヴァース殿下が「ははは」と明るくお笑いになり、姫の頭を撫でられた。
「ナディアの言うとおりだ。ラシードがかぜをひいたりなどしたら大変だよ? 女だからそういうことが分かるんだよ、女はえらいね」
「何を言うか生意気な、そういうことにならんよう体を鍛えさせているんだろうが、俺はそういう軟弱な考え方は嫌いだ。だいたいこいつが休んだら誰が兄貴を守るんだ」
「べつにほうっておいたらハー兄さまが死んでしまうわけでもないし、ラシードはいつも宮殿のべつの仕事をしていてずっといっしょにいるわけではない。大切な時だけでいいとシャムシャは思うよ」
「ねぇ兄さま」と姫がハヴァース殿下の手をつかまれた。殿下は「そうだね」と目を細めなさった。
「シャムシャもセータも自分の考えをきちんと持っているようで兄としては嬉しいよ。でも、兄様は兄様でちょっと違う考え方をした」
「そうなの? どうなの?」
「花嫁は人身売買か物々交換で貰ってくるものだと思っていたけど、ラシードは恋女房を貰ってきたようだ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。殿下は意地悪い笑顔で僕をご覧だ。
「彼女は君といたいんだ。だから自分と過ごす日を作れと言っている。対して君も、自覚はしていないのかもしれないが、心のうちでは仕事でここにいるより家で彼女といた方が良さそうだと感じている」
衝撃だったよ。天地が引っ繰り返るような指摘だった。僕の存在意義が揺さぶられた気がした。
しかも、その時の僕には、すぐに否定することができなかったんだよね。白将軍なのに、情けない。
でも、ハヴァース殿下はそんな僕を叱らないでくれた。
「いいだろう、週に一日程度は丸一日休むようにしなさい。一日の勤務時間も半日を超えないよう朝早く来たら夕方に帰り夜中までいる日は昼過ぎに出てくるようにすること」
驚きで言葉が出なかった。そんな僕の代わりにセターレス殿下が「いいのか?」と訊ねられた。
「ただし外出する時は一言言ってからにしてほしい、すぐにつかまるようにね。また、有事には全部返上で僕と強制的に蜜月を過ごしてもらうことになるけれど」
「よろしいんですか」
不安になった僕が訊ね申し上げると、ハヴァース殿下は穏やかに微笑まれた。それに、とても安心させられた。
「僕はね、ラシード。自分の家庭も守れない男に国は守れないと思っている」
このお方は、支配者であり統治者であり指導者なのだ。
「この世で出会う者すべてが師であり徒である。奥方に教わるといいだろう、愛するとは何か、守るとは何かを。僕はただ義務感だけで守られたくはない、君にもっと白将軍としてどうありたいかを主体的に考えてきた上で傍にいてほしいんだ」
それから、かのお方はそれまで王としてのお顔をなさっていたのが嘘であるかのようにはにかんで、「僕もまだ答えが出ているわけではないけれど」とおっしゃった。
「少なくとも、僕は感じられていると思う。僕は母上や妹を愛しているし、すべての使用人の話をきちんと聞いていきたいと思っている。国を守ることを思うとまだまだ小さな一歩だけど、礎はここにあると思っている」
そして、僕は感じられていないし、考えようともしていない――おっしゃるとおりだ。
セターレス殿下が一拍置いてから、「え、俺は?」とお訊ねになった。ハヴァース殿下はわざとらしい声で「セータのことも愛しているよ」とおっしゃった。
僕にはまだ、分からないことばかりだけれど。その時一つだけ――この方についていけば大丈夫そうだ、ということだけは、分かった。
「父上には僕から話すよ。どうせどうでもいいと言うと思うけれどね」
数日後に陛下から正式に定期的に休みを取っていいというお達しが来た。文面はハヴァース殿下のお手で、ご署名だけが陛下のものだったっけね。
あの方は当時王子と呼ばれていたけど、王の御子ではなく、子供である王だったな。あの方はずっと王でいらしたよ。
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